2017/09/17

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1 変化


齢三十ともなると、大して変わってもいないと思っていた「自分」というものが、案外変わってきているのだという、極々小さな、自分しか分かり得ない、しかしながらその私的さ故に少しく衝撃的な気づきに、心打たれる瞬間がしばしば訪れるものなのだと感じる。かつては美味いと思っていたものがいつの間にか口に合わなくなり、かつては何が面白いかさっぱり分からなかったものに声を立てて笑うようになる。そういう変化とは、人にとっては本当にどうでもよいことであって、例えば、学生の頃はうまいと信じて疑わなかった早稲田の「武道家」の豚臭いラーメンが、いつの間にか食に堪えないものになっていたということ。かつては何が面白いのか僕にはさっぱり分からなかった、芸人がただただケツをしばかれ続ける年末のバラエティ番組の動画を夜ごとに流しては、生理現象のようにこぼれてくる笑いに、自ら呆れているということ。こういう至極凡庸で、俗悪な、語られるに値しないレベルで、「自分」というものは刻々と変化をし続けている。劇的な変化は、なんであれ人のお耳を汚すに値する物語になり得るけれども、本当のところ「変化」というものの九割方は、毎日僕の体の細胞が入れ替わっているのと同じように、何の物音もたてなければ、何のドラマチックさも無いものなのだろう。しかしそれでも、毎日の新陳代謝が確実に体に老いを刻みつけていくがごとく、こつこつと音もなく積み上げられた変化は、ある時、目に見える変化として発見される。そのことは、それなりの長い時間がすでに過ぎ去ってしまったということ、そしてそのことにドラマチックな意味合いなど大してなかったのだということを、僕に思い起こさせる。

2 理不尽


耐えたほうがいい理不尽と、耐えていないで戦うかあるいはさっさと逃げたほうがいい理不尽の差は何なのだろうか? たぶん、この問いに対する客観的で誰にとっても・どんなケースであっても当てはまる正しい答えは存在しない。しかしながら、自分なりにこの問いに答えを出せることは、個人の精神衛生上とても大事なことに違いない。個人の精神衛生のみならず、共同体に、(客観的でどんなときでも当てはまる原理原則ではないにせよ)ある程度この問いに対する共通認識があることも、共同体の健全さを保つうえで大事なことであると思う。
理不尽に対してどのような態度をとるか? 世界には理不尽が満ち溢れている。それでも、理不尽に屈することなく耐え抜くことが、一般的には「責任感がある」と呼ばれているように思う。でも、責任感があるか無責任かというのはゼロ百のデジタルな差ではない。責任と無責任には「間」があるってことを、たぶん認めなきゃいけない。理不尽に耐えていることこそが、個人にとっても共同体にとっても、罪深さの源泉である場合がある。たとえば僕はそう思うけれども、当然そう思わない人だっているだろう。そう思っている僕自身の内でさえ、理不尽に少しも耐えられない人間ほど弱い人間(※1)はいないと思っている節があるし、矛盾はいたるところにある。この問いに対する反応の違いはふとしたことから表面化し、個人の中には葛藤を、集団の中にはあつれきを生む。あつれきは悪いものではない。むしろ、あつれきはあって然るべきものだ。個人の中の葛藤は、あって当然のものだと思うし、そういう葛藤こそが人を大きくすると僕は信じている。共同体の中のあつれきも同じで、あって当然だし、むしろそういうコンクリフトをもみ消す風潮がある共同体というのは、なかなかまずい状態だと思う。

3 問うということ


耐えたほうがいい理不尽と、耐えていないで戦うかあるいはさっさと逃げたほうがいい理不尽の差は何なのか。世の中的に、この問いに向き合うこと(答えを出すこと、ではない。)の重要性はとても高くなってきているように思う。
当然のことながら、このことに向き合うってことは、簡単じゃない。心の中の葛藤は、それがどんなにあとから見て価値あるものだとしたところで、苦しいときは苦しいものなのだ。いやむしろ、本当に苦しいときというのは、自分自身のなかに葛藤があるのだということ自体に気づけていない、暗闇の中のことであるかもしれない。価値観の異なる他者と対話を試みることには、とてもエネルギーがかかる。そして、どんなに誠実にコミュニケーションの断絶に向き合ったところで、お互いにとって良い結果が実るとは限らない。理不尽さに向き合うっていうのはそういうことであると思う。そこからもたらされるものは、何だろうか。


世の中の立派な人たちはこう問う。「"理不尽さに向き合うこと"、そこから引き出せる、"教訓"や"学び"とは何でしょうか?」
「立派な人」は、パリッとしたスーツを決めた、穏やかな微笑みを浮かべるビジネスマンの姿をしていることもあるし、学校の先生の姿であることも、政治家の姿をしていることも、この世のあらゆることや最も大事なことをある超越的な存在から学べると説いている、スピリチュアルなリーダーの姿をしていることもある。
ビジネスライクな趣であれ、どんな趣であれ、「立派な人」の投げかけるその問いは、正しい。どんなときであれ主体的に生きていくことを良しとするのであれば、この問いは悩める人間に投げかけられなくてはならない。だからこそ、この問いは、趣やフォーマットは異なれど、世界のどこでもどの時代でも、繰り返されてきた。村の長老の会議の中で、戦いの陣中で、議事堂の中で、教会の告解室で、親と子の会話の中で、ビジネスコーチとの対話の中で、上司との面談の中で、セラピストのセッションの中で。
彼らは正しい。主体的に生きていくために、理解しがたい現状(その中には、理解しがたい「自分」も含む。)に向き合い、学びを引き出すことでそれを乗り越えていく努力と、それを促す行為を、誰が間違っているだなんて言えるだろうか。それでもなお「正しさ」は、その正しさがゆえに、人を無性に苛立たせて仕方がないことがある。教訓? 学び? 人は学ぶために生きているのだと? それは所詮、当事者でない、安全な場所から物事が言える人間だから、言っていられることではなかろうか? 


問うということは、権力の瞬間である(※2)。問うという行為は、人を問う者と問われる者に分ける。継続的な「問う」という行為は、問う者と問われる者という関係性を、定着化させる(※3)。「問い」が正当であればあるほど、権力に逆らうことはできない。僕は、そういう正しくて権力を持った人たちに、その正しさ故に苛立つことがある。けれどももっと複雑なことは、立場上、僕こそがそちら側の立場になることもしばしばあるということだ。謙虚でありたい。しかし、謙虚でありたいと願いながらも、世の中の半分くらいの傲慢さというのは、意図せずしてそうなってしまったのだろうと思うと、自分自身も知らぬうちに傲慢になっている可能性もあるのだろう、と思う。だから、半分は諦めてもいる。

4 疲れ


「生きていくとは理不尽さに向き合うことである」などと偉そうに結論付けることは、おそらく間違いである。それは普遍的な定義ではなく、話者の人生観の披瀝に過ぎない。そういう人生観の人たちもいるけれども、僕は必ずしも賛同しない。それでも、「理不尽さに遭遇せずに生きていくことはできない」とは、少なくとも言えてしまうのではないだろうか。
理不尽さに遭遇したとき、人は、多かれ少なかれ、まずは一生懸命にそれに向き合おうとするものだと思うのだ。理不尽それ自体に。そのまま耐えるべきか、あるいは戦うのか、逃げるのかの選択に、その葛藤に。理不尽に対してとる態度が違う人たちとのあつれきに。そして、理不尽に対する教訓を問うてくる「立派な人たち」と、彼らの問いへの苛立ちに。
理不尽に遭遇するとは、そういう付随する葛藤や苛立ちとも芋づる式に遭遇するということなのだろうか。そういうふうに考えると、「"理不尽さに向き合うこと"からもたらされるものは何か」という問いへの答えが、僕には見えてくる気がするーーああそうか、彼ら「立派な人たち」が「理不尽から教訓や学びが引き出せる」という前提に立つのは、そう問わなくてはいけない立場や理由があるからなのだ。理不尽に遭遇する経験から、教訓や学びが引き出されないというわけではない。それでもなお、教訓や学び以前に、理不尽からもたらされるものとは、単なる、否応もない、「疲れ」であり、「面倒くささ」なのだ。


齢三十ともなると、大して変わってもいないと思っていた「自分」というものが、案外変わってきているのだという、極々小さな、自分しか分かり得ない、しかしながらその私的さ故に少しく衝撃的な気づきに、心打たれる瞬間がしばしば訪れるものなのだと感じる。僕はこの十年で、この種の「疲れ」との付き合い方に、圧倒的に慣れた。かつては一生懸命に向き合っていた葛藤を、括弧に入れて括ってしまえるようになった。コミュニケーションがうまくいかない相手に対して、その断絶を乗り越えようと努力を続けていたものを、それでも努力を続けるかあるいはあっさりと諦めるかを、わりと早く判断できるようになった。立派な人たちの立派な問いを、それはそれとして受け取り、あまり苛立たなくなった。自分が「立派な問い」を投げかけるのは、役割として割り切れるようになった。向き合うのでもなく、答えを出すのでもなく、括弧に括ってしまうこと。そうすることによって、「疲れ」を最小化するということ。「面倒くささ」を出来る限り回避してしまうということ。かつては何が面白いのかが分からなかったお笑いについて、今はそういう種類のお笑いで笑うということ(※4)。それを成長と呼ぶのか何と呼ぶのかは、ある価値基準による判断が差し挟まっている。その価値基準については、誰か偉い人に任せておくことにしよう。価値基準を差し挟まずにニュートラルに言えることは、僕は「変化した」ということだけだーー人にとっては本当にどうでもよい、凡庸で、俗悪な、語られるに値しないレベルで。

※1 理不尽に対して免疫力のない人ほど、しばしば突如として暴力的になるものだ。
※2 エリアス・カネッティ「生き残る者」の一節へのオマージュとして。
※3 いっとき、ビジネスの文脈で「質問力」がもてはやされたときがあったけれども、あれは、根源的には問う側に回りたいという、権力への渇望なのだと思う。しいたげられている、もっとうまくやれるはずである、という自己認識は、力を欲する心に変わる。その後、「武器」という物々しいメタファーを題名として冠した書籍が一定度ヒットしているのは、不思議ではない。
※4 ここにきて、僕はあの芸人がケツをしばかれるバラエティ番組は、ある種のセラピー映像なのだと思うに至った。すなわちあの企画は、世の中を生きていると付き合って行かなければならない理不尽や諸々の面倒くさい事柄を、一旦全部一括りに括弧に入れて、何の思考も批判も差し挟まずに、バットでしばき倒して笑いに変えるという、俗悪ながらも効果のあるカタルシス発生装置なのだと。
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