2014/02/09

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【要約】

  • 家入一真氏が都知事選挙で「優しい革命」という言葉で表した自身のスローガンは、(弱さや甘えを含めた)”個人”・”個性”を全面的に認める個人主義の価値観、そして”個人から発せられる意見を集約するのが政治”という一般意思的な発想に基づいており、ソーシャルメディアがこれを技術的な側面から可能にした。
  • 氏の支持者の”政治参加”には、「優しい革命」というスローガンに象徴されるように、対立軸が抹消され”みんな”の意見が合理的に調和するようなユートピア的な世界観への理想がその背後にある。しかしながらその裏返しは、政治的な衝突や敵対性への忌避である。
  • 氏の支持層に、氏を当選させることに対する具体的な利害があるとは考えにくく、支持者は氏の価値観を信用して支持していると考える。これはシャンタル・ムフが言うところの「情動的な次元」での支持であり、彼らにおいては利害が問題なのではなく同一化(アイデンティティ)の問題なのだ。


都知事選は最初、宇都宮氏と田母神氏という、何があっても相容れない二軸の戦いになるかと思ったら、そんな風に進むわけもなく泡沫候補、本命候補者含めの乱戦になった。選挙期間中は私はソーシャルメディアでは事に触れるのを避けていて、くだらない冗談などを飛ばしていたのだが、本当に冗談のような家入一真氏の登場には恐れ入った。Twitterでよくある遊びの「○○回リツイートされたら○○する」の”立候補版”の具合で「1000RTで都知事選出馬」とつぶやいたら、あっという間に拡散してリツイートされたので事が本当になってしまったのだった。この事態と現象については、なかなか自分の中で消化できず、遊びなのか本気なのか途中までよく分からなかった。

都知事選の終わりに合わせてこの”家入現象”を、振り返ってみる。すると、最初に氏が「1000RTで…」と言った最初の時点で本気だったかそうでなかったかは分からずとも、氏のやったことと、氏を取り巻いていた環境がひき起こしたことの意義は理解できる。

選挙で若い候補が「若さ」それ自体をアピールすることは、今に始まったことではない。むしろ若い候補は老練な政治家と対決するのに「経験」を武器にできないから、「若さ」を武器にするしか今まではなかったわけだ。家入氏ももちろん若さをアピールしたし、若年世代に対する価値観を発信し続けた。これはなんら新しいことではない。

氏が新しかったのは、政策を自ら打ち出すのではなくソーシャルメディアを使って募ることを大々的にアピールしたこと、そして本当にそれを取り纏めたことであった。氏は、政策という武器を持っていなかった。むしろ政策の主張をせず、「#ぼくらの政策」をオープンに募った。このオープンさが氏の武器であった。そして、おそらく周りの助力があって政策として集約され、何とか形になってしまったのだ。

大袈裟な言い方をすると、ルソーの時代から数々の政治学者やら哲学者が夢見てきた、「”一般意思”の体現」のようなことを、自分を一つのアイコンにすることでやってのけてしまったのだった。これは、少なからず新しいことだと思うし、意義があることだ。

氏は勝利しないだろう。それは選挙戦の途中からも見えていた。実際、彼は勝利しなかった。しかし、若年層を中心にムーブメントをつくりだし、支持をつくりだしていったこともまた事実である。これを、どういう風に解釈するべきであるか。

私は、これは政治行動における自由主義(リベラリズム)の現われであると考えている。

家入氏は、「優しい革命」という言葉を自らのスローガンとした。「優しい革命」という言葉の定義やマニフェストのようなものがあるわけではなさそうである。氏の発言から読むと、「優しい革命」の意味は、弱者が強者に搾取され脅かされる構図を覆すという意味が込められていそうである。興味深いのはそれが「優しい」と表現されていることだ。氏の価値観は、弱さや甘えを抱えた小さな存在としての人間を全面的に認めている。氏自身がひきこもりであったバイオグラフィからも物語られることであり、その個人の歴史がこの言葉には込められている。

家入氏の「優しい革命」の価値観は、「優しい個人主義」と言い換えられるだろう。世の中は「厳しい個人主義」で溢れていて、疲れ果ててしまう。自ら命を絶ってしまう人もいる。氏の主張は、そんな厳しい個人主義ではなく優しい個人主義が政治の場で実現されてもいいんじゃないか、という価値観の発信であったと思う。

そして、もう一つ重要な側面は、その”個人”から発せられる意見を集約し実現するのがが政治であるという価値観の発信だ。氏はTwitterのハッシュタグ「#ぼくらの政策」を使って政策を募った。彼から一方的に政策を発信するのは(演出であるにしろ)しなかった。あくまでも”個人”の声を尊重し政治に反映する姿勢を示し続けた。

その「優しさ」と「個人の尊重」から何が導き出されたか。それは、対立軸の消えたユートピア的な価値観だ。今回一般に争点であったと言われる原発問題について、氏は特に何かを主張しなかった。「いろんな意見があったりして、細かいことが僕にはわからないので、いろんな見地から意見を吸い上げて僕がまとめればいいかな」(※1)という氏の発言に、対立姿勢は無い。そこにあるのは、みんなで話し合っていい方に決めようという誰しもの理想、ユートピア的な考えだけだ。氏の考えは、あまりにも「優しい」のだ。

闘技的(Agonistique・※2)という言葉を使って「政治的なもの」を説明する政治学者、シャンタル・ムフは、自由主義(リベラリズム)・リベラル民主主義が説く「敵なき」民主主義の世界観に疑問を呈している。ムフの説明をかみ砕いて説明すると、リベラリズムは要するに「みんな違ってみんないい」の政治観だ。しかしながら、”違っている”ということでケンカが起こってしまうのならば、世界は平和にならないから、「違う」ということについてはお互いやんわり触れないようにしていかないといけない。
リベラリズムの思考の特徴である方法論的個人主義は、集合的アイデンティティの本性の理解をあらかじめ回避してしまう。(※3)
詳しくは論じないが、ムフは続いてハーバーマスの言うようなリベラルだけど討議的な民主主義についても批判を加えている。ムフの主張のすべての出発点は、一言でいうと「政治はそもそも対立をはらむものなので、このことから目を背けないようにしましょうよ」だ。そして、「対立」とは、私に言わせれば「具体的な利害」そのものだ。
人びとがますます政治に関心を失い、棄権率がますます上昇しつつあるのは驚くべきことではない。動員は政治過程を要するが、しかしながら政治過程は世界は対立に満ちているという表象の産出を欠くなら存在しえない。(※4)
思うに、家入氏の支持層は、取り立ててなんらかの具体的な利害を持って投票したというわけはないのではないか。当選した舛添氏に投票する理由は、党利という意味でも充分あるだろう(※5)。家入氏に投票する理由は、党利ではありえない。家入氏に投票する理由は、もっと感情とか、価値観に近しいもの――ムフの言葉を借りれば「情動的な次元」であろう。ムフは、これを同一化(アイデンティティ)の問題だとも言っている。

これだろう。ソーシャルメディアで家入氏が支持されたのは。特に何の政策も自ら持っていなくても支持されたのは、アイデンティティの問題だったのだ。

私は家入氏には情動的な次元を呼び起こすパワーが充分あったと思うし、それを周囲を巻き込んで形に仕上げたということに意義はあると思っている。ただ、不安を感じるのは、氏の支持層が具体的な利害に根差したものをもっていないが故に、情動的な連帯は弱く一時的なものであることが見えていることだ。

家入氏は「強者」と「弱者」という対立軸を一応は仕立てた。そして、自分は弱者の側に立つ立場をとった。しかし、これはあくまで観念的なもので具体的な利害ではないし、弱者側に立つ氏は、本当は”弱者”であるかというと、連続起業家として名を挙げた現在の経歴からすればかなり怪しい。

情動的な次元はパワーを持っているが、ボロが出るときは早いものだ。そして支持する側の手のひら返しも早い。「人民は強者に支配されることを望む」(※6)という趣旨のマキャヴェリの言葉を引用したムフではないが、”若年層で弱者”というおそらく家入氏と支持層が被るセグメントで、田母神氏の得票率が高かったというデータに、一抹の不気味さを感じつつ。

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※1 http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/22/kazuma-ieiri-kaiken_n_4641901.html
※2 ”討議的”の誤字ではない。闘技的。
※3 シャンタル・ムフ『政治的なものについて: 闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築』明石書店、2008年。P.26
※4 同書P.44
※5 また某医療法人みたいに5000万円とか出なければいいけどね。
※6 前掲書P.19参照

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