2013/04/27

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1.ある会社の新人研修にて

4月の初頭の事。あるお客さまでの新入社員研修の実施に立会いに行った。

私の会社の提供する新入社員研修のプログラムでは、冒頭に「なりたい社員/なりたくない社員」というワークをやる。社会人になるにあたって、「こうなりたい」という像と、「こうはなりたくない」という像を明確化してもらうことが目的で、班ごとに討議した後、クラスでも共有する。

まあ、どこの会社でワークをやっても、同じような答えが出てくる。そして、大体は「なりたくない社員」のほうがたくさん意見が挙がる。答えは大体、以下のようなものだ。

<なりたい社員>
元気がある社員
何事にもチャレンジする社員
イキイキしている社員
有言実行する社員

<なりたくない社員>
不平不満ばかり言う社員
疲れきっている社員
自信や誇りを持てない社員
人のせいにする無責任な社員
自分に甘い社員
余裕がない社員

私の会社の提供する研修プログラムは、新人研修に限らず営業研修でもリーダーシップ研修でも、基本的に「WHY-WHAT-HOW」の構成になっていることが多い。新人研修で説明するなら、以下のようなものだ。
  • 「WHY」=社会人に「なぜ」自分はなるのか、この会社に所属する社員になることを選択した「理由」を考えさせる(就職活動の時から思っていたことを再度思い返してもらい、明文化する)。
  • 「WHAT」=そのような社会人・あるいはこの会社の社員になるためには「何を」やればいいのかを理解する。新人研修であれば「報告・連絡・相談」など。
  • 「HOW」=具体的にそれをするために「どのように」やればいいのかを練習し、習得する。具体的には、ロールプレイやケーススタディなど。
「なりたい社員/なりたくない社員」というワークは、社会人としての「WHY」を考えさせるものだ。社会人になるにあたって、そもそもどういうビジネスパーソンになりたいのかということを考え、明文化してもらうためにやっている。

私は社会人としての「WHY-WHAT-HOW」というのは、人としての「BE-DO-HAVE」に連関してくるものだと考えている。即ち、
  • 「BE」=どのように在りたいのか。
  • 「DO」=そのために何をするのか。
  • 「HAVE」=そのために何を持っていなければならないのか。
研修という文脈で考えれば、最後の「HAVE」のところが具体的な「スキル」だったり「知識」だったりする。新規開拓営業をバリバリやるためには、見知らぬ会社や人にガンガン電話をかけてアポをとるスキルが必要だろうし、”折れない心”も持っていた方がいい。会社の経営者に生命保険を売りたいなら、経営に関する税務の知識は持ってなきゃいけない。こういう「持っていなきゃいけないもの」が具体的な育成コンテンツになってくる。

以上の内容を簡単にまとめると、以下のようになる。


人材育成という観点から言うならば、最後の「HAVE」であったり「HOW」の部分は、それ以前の「WHY / BE」、「WHAT / DO」という流れがあってこそのものであって、その部分が抜けている「スキル」とか「知識」研修は、「今日はいい話聞いた~(明日には忘れている)」というパターンになりやすい。もっと言ってしまうと、巷の「ジコケーハツ」の多くは、「WHY-WHAT-HOW」で考えると「WHY」に偏りすぎていて「WHAT」や「HOW」の部分が全く欠けているように思われるし、逆に「HOW」ばっかりで薄っぺらい印象を受けるものもこれまた多い。

もちろん、研修だけで「WHY-WHAY-HOW」が全てカヴァーできるかと言ったらそれは嘘になるし、研修は一つの部品として捉えた上で一連の流れとして考えていかなければいけないものだ。でも、「WHY-WHAT-HOW」という一連の流れ、ロジックはそれだけ強固なものだと私は思うのだ。

しかし、気が付くと、ふとこれを逆の順で考えている自分に気づくのだ。即ち「HOW-WHAT-WHY」、「自分は何を持っているか」を起点として考えてしまうのだ。

「HOW / HAVE」=自分は何を持っているか。
「WHAT / DO」=自分は何がやれるか。
「WHY / BE」=自分は何者か。

2.「HAVE-DO-BE」の罠

私はこの4月で社会人5年目になったのだが、白状すると4年目はこの考え方に嵌まり込み、迷走した。正直に言うと、色々な局面で追い詰められていた。詳しく書くことはしないが、追い詰められていたからこそ、ある意味、行動には出た1年だった(※)。反省は、その行動が良い実を結ばなかったことだ。

今から考えてみると、私はこの「HOW-WHAT-WHY」あるいは「HAVE-DO-BE」のロジックには嵌っていたのだった。このロジックは、追い詰められている状態にあっては、ある意味「現実的」で「堅実」に思われる。なぜなら、「持ち物」を起点にして考えるから。「今持っているもの」は、今までの経験であったりスキルという無形のものだったり、お金のような有形のものかもしれない。「学歴」も一つの「持ち物」と言えるだろう。「持ち物」を起点にして考えるならば、今持ってなくても、「手に入れればいい」という気楽さがある。スキルや知識が足らないならば習得すればいいし、資格習得も一つの手かもしれない。お金を出して買えるものなら買えばいいし、お金が足りないなら稼いだり貯めたりすればいい。

行動の結果が一番早く現れるのが、この領域なのだ。だから、現実的で堅実に思われる。だから、「持ち物」を起点に考えることは、魅力的に映る。

このことこそが、罠だった。

行動を続けていると、「HOW / HAVE」を起点して考えるのは、実はとてもシンドイことだと分かる。なぜなら、「持ち物」に意識を向ければ向けるほど、どんどんとまだ「持っていないもの」に目が向いてくるし、「持っていない」という事実が徐々に重く感じられてくる。努力しても手に入らない・今からでは遅い、という物にも目が向くようになる。努力すれば手に入るはずのものでも、やすやすと手に入れられない苦悩が募る。そして最悪なことに、考え方の順番が「HAVE-DO-BE」になった時点で、「持ち物」を起点としてでしか「自分は何者なのか」を語れなくなっている頭になってしまっているので、「持っていない」という事実が自分のアイデンティティを薄っぺらいものにしていく。これは悪循環だ。

私は、幸いにしてあるタイミングでこの考えを強制終了的にぶった切ることができたので、良かった。かつ、私には自省する癖がついているので、上記のように自分が苦しんだ迷走状態を分析することもできる。

実際のところ、こういうことで自分が苦しんだという事をこういう公開の文章にまとめるのはすごく恥ずかしい。でもなんで書くかというと、それも理由がある。読者のため、というのは美しい理由だ。もちろん、拙文がほかの人の何かの足しやら慰みになれば、それは嬉しい。ただ、こんな読者の少ないブログなので、読者のために書いてます、なんてのは端から嘘になりすぎる。他者にとってのメリットはいざ知らずでも、私にとってのメリットは確実にある。一言で言うと、こうして書くのは、未来の自分の財産になるからだ。

3.再び新人の話・自分の思いを振り返る仕組みについて

再び、冒頭の新人研修の話に戻る。社会人5年目となって立合いに行った新人研修で、社会人数日目の新入社員から飛び出す「なりたい社員/なりたくない社員」を聞いていた私は、思わず考えてしまったのだった。確かに自分が新入社員の時も、同じような意見を持っていた。イキイキした社会人になりたい。毎日グッタリ疲れて帰るような社会人にはなりたくない。自主的な社員になりたい。愚痴ばかりの社員にはなりたくない。その通りだ。

だが、5年目の自分はどうだ?

胸に手を当てて考えるまでもなかった。私は「HAVE-DO-BE」の罠に陥っていた。だけれども、これはきっと私だけでもない、とも思う。

追い詰められれば追い詰められるほど、疲れれば疲れるほど、当初に思っていた社会人像なんて考える暇も余裕も無くなる。「BE」なんか考えない。眼前の「HAVE」で目いっぱいなのだ。「こんな風になりたいなどと言うのは、甘い」と悪態すらつきたくなる。でも、本当はそれは考えが変わったのではなくて、忘れてしまっただけ、のはずだ。

当社の新人研修を受講した新入社員のいったい何人が、1年後・2年後テキストを開いて「なりたい社員/なりたくない社員」の欄に何を書いたか振り返ってくれるだろう。まあ、あまり期待はできない。でも、私一個人としては、それはやったほうがいいと思っている。別に、テキストを見開かなくとも良い。自分が過去何を考えていたのか、過去自分がどんなふうになりたい(BE)と考えていたのかを振返えれれば良い。自分が過去何を思っていたのかを振り返るための材料というか、仕組みを持っていることは、すごい財産になると思う。

その意味で、自分が考えたことを文章にしておくということは、未来の自分にとってのものすごい財産になるのだ。私の場合はこうやって、ブログという形で残すのが性に合っているので、ここに書く。私の場合は、公開することにはある程度の意味があると思っているのでブログにしているし、文章は長く書く人間だからこんなになっているけれども、公開が嫌ならば日記でもよいだろうし、こんな長い文章を書く必要はないと思う。要は、自分の過去の思いを振り返れるように「文章」にしておくことに意味があると思うのだ。

私は今でも自分が過去書いた文章を読みなおすことが結構ある。読んでいて、昔と考えが変わらないなと思う事も、考えが少し進んできたということも当然ある。文章と言うのは、いつまでたっても変わらずに待っていてくれるものなので、簡単に過去の自分と対話することができる。

社会人5年目にして、この重要さが分かってきた気がするのだ。ブログというのも書き溜めていく意味が分かった。


僭越ながら、もし今年新入社員として入社した方にアドバイスをするとすれば、今だからこそ考える社会人としての「WHY」であったり、人としての「BE」を、何かの文章に書いておくことをおすすめしたいと思います。きっと、少なからぬ人は当初の思いを働いているうちに忘れるでしょう。私はそうです。会社に勤めていれば愚痴の一つや二つも言いたくなることなんてざらにあるだろうし、当初の夢いっぱいのピュアな心を忘れてネガティブな思いに捉われることは不可避なんじゃないかと、凡人たる私は思います。

忘れるのがいけないのではなく、大体忘れるからこそ振り返る仕組みが要るのだと思うのです。そのために、もし会社として何かの新人研修をやっていたなら、そのテキストなりを道具として使うもよし、適したものがなければ自分で文章を書くなり、私みたいにブログに書くのもよいと思います。

最後は以前も引用したこの言葉を引いて締めようかと思う。

Il faut vivre comme on pense, sinon tôt ou tard on finit par penser comme on a vécu.
Paul Bourget
考えたように生きなければならぬ。さもなくば、生きたように考えてしまう。
ポール・ブールジュ

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