2013/01/27

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私のフェースブックのタイムラインには、一時期とても社会意識の高い人たちと積極的に交流していたことの名残で、選挙の時から直後は、露骨に、明らかに相いれない正義と正義とが戦っている様子が見受けられた。論点は原発であり、労働であり、人権であり、様々であった。論点はいろいろあれども、それらは相手のことを叩くべくして叩いていたし、決して相入れようとはしなかった。そこには、「プロトコルの違い」とでも言うべき絶望的な溝があるようで、この対話の不可能さには少々くらくらとした。

衆院選の結果と都知事選の結果に、ニーチェの「善人たちはすべて弱い。悪人たりうるほど強くないゆえに、彼らは善人なのである」というテーゼを思い出す。この少々乱暴なテーゼが、結果を見ていると妙な説得力を持って感じられるのが、私には悲しい。衆院選にせよ、都知事選にせよ、勝ったのは「弱きを守る」ことをアピールした者ではなく、「強い我々」をアピールした者であった。そして、前者は「善人」すぎたのだった。それに対して後者は、敢えて善人たることを引き受けていなかった。穿ったものの言い方をすれば、善人たることを引き受けないのは、彼らの戦略なのだ。

そういうことを考えたのは、正月に漱石を読み返していてであった。やはり、漱石が『三四郎』で「偽善家」に対して「露悪家」という言葉を作ったのは炯眼としかいいようがないと思う。「偽善家」と「露悪家」のことを言っているのは三四郎と広田先生が先生の家で会話しているくだりである。先生の見解をかみ砕いて要約すると、以下のようなものになる。
  • 偽善というのは、それ自体が目的でないような善だ。例えば、形式上の親切。親切それ自体が目的でなく、別のことが目的であるような親切は、不愉快だ。
  • 例えばアメリカ人が金銭に対して露骨なのと一緒で、それ自体が目的であるような行為は正直なものであって、厭味がないものだ。
  • 広田先生の時代(小説上の昔)は、人はこむずかしい教育を受けて、万事に正直に出られなくなった。なので、教育を受けた人は「偽善家」になった。偽善家はすべてを親とか、国とか、社会とかの利他本位で満たそうとする。
  • 対して(小説上の)この時代は露悪家ばかりになった。露悪家は、利他本位の内容を利己本位でみたすという「むずかしい」やり方をする。別の言い方をすると、偽善を行うにも露悪をもってする。相手から見ても偽善としか思われないような仕方でしむけるのが露悪家のやり方で、当然相手は嫌な気持ちになる。それでも偽善を偽善そのままで通用させてしまうのが特色だ。
  • 利他主義(偽善家の時代)と利己主義(露悪家の時代)は前者から後者に一方通行に進むのではなくて、ループする関係にある。
露悪家というのは、「偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところ」があるのだという。漱石の言っていることを考えていて、私はふと例のニーチェのマッチョなテーゼと合わせるとどうなるか、ということを思いついた。そして、以下のような言説に行きついた。

「強い」ということは、「偽善を偽善のままで押し通すだけの強さ」なのだ。対して「弱い」とは、「偽善を偽善のままにはしておけぬ弱さ」なのだ――。

漱石とニーチェを掛け合わせた結果の帰結には、少々慄然とした。なんという身も蓋もない言説か。良く考えると、少々滑稽にも思われてきたが、あながち的を外していないようにも感じられる。

震災があって、日本の社会は一気に利他主義に動いた。その頃の社会の空気は、「善意」に満ちていた。「正義」というものが確かにある気がした。そして、どう考えても困っている状態にある人を助けることは確かに正義だったのだ。

それから時間が経ち、その社会の雰囲気は薄れていった。「正義」というものがまた分からなくなる不安の時代がやってきて、政治が叩かれ、結局解散総選挙になった。そして気が付けば、政治でも、政治の世界でなくとも(※)、威勢のいい論客は露悪家ばかりになっていた。彼らは人の気分を害することを気にしていないし、彼らのいう事は控えめに言ってもControversialだ。まあ、もっとはっきり言えば、偽善的だし、偽善であることを隠しすらもしていないし、その姿は誰の目にも横暴に見える。誰というのは、ここでは述べないことにしようと思う。

ここで私が思うのは、こういった露悪家たちですらも、偽善を偽善のままで「受け取る」側がない限り、息が続かないという事だ。別の言い方をすれば、露悪家の時代というのは、漱石が言うように露悪家が多くなる時代という意味だけでなく、露悪家が支持される時代という意味も含まれているのだ、ということだ。

露悪家が勝つ時代では、偽善家は敗れる。こういう時代の「露悪」には、偽善を偽善のままにしておくことを「弱さだ」と見せてしまうだけの力があるのではないか? こうして社会には「軟弱な」善よりも露悪が、冷静な批判よりも攻撃的な言説が、より流通するようになるのだ。

きっと露悪家であろうニーチェは、天上でこの状況をほくそ笑んでいるだろう。そんなことを、考えた。

※一部の「評論家」さんとか、「ブロガー」さんとか…。

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