2012/05/27

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Il faut vivre comme on pense, sinon tôt ou tard on finit par penser comme on a vécu.
考えたように生きなければならない。さもなくば、生きたように考えてしまう。
ポール・ブールジュ

Don't be pushed by your problems. Be led by your dreams.
問題に突き動かされるようにして生きるな。君の夢に導かれて生きよ。
エマーソン

私には二つの「大切にしている言葉」がある。「座右の銘」と歯切れよく言いきれないのには、理由がある。これらの言葉は、あまりにも私に厳しく鞭を打つような考えだ。幸なのか不幸なのか、私はこれらの言葉を鵜呑みにして座右の銘にできるほど、楽観的な人生は歩んでこられなかった。

生きたように考えたことを否定し、考えたように生きていけばいいのか。そんなことはない。私はいつであっても<すでに・ここまで>生きている。そうやって生きてきたように、<いま>考えていることを否定することは、してはならないことだ。たとえ今までの人生が悲しく辛いことの多い人生であって、そのように悲壮的で暗い物の考え方の持ち主に育ってきてしまったとしても、だ。そのこと自体を否定することは、今までの自分の生を否定する事に他ならないのではないか。<すでに・ここまで>生きたように考えているということを尊重しないことには、何も始まらぬ。たとえ<いま>が40歳であれ、50歳であれ、60歳であれ、何歳であれだ。

私は幸か不幸か、まだ20代であって、別段ブールジュの言葉を座右の銘として謳っても、別に恥ではない年代だとは思う。だけれども、私が年を取ったならば、この言葉をこれ見よがしにこの言葉を唱えるのは恥ずかしいことになるかもしれないだろう。なぜならば、今から私がきちんと考えたように生きて頑張ってみたとしても、たとえば私が50になった時に、「生きたように考えて」悶々と生を託ちながら生きている可能性だって、なきにしもあらずだからだ。そうなった場合は、私はもはやこれ見よがしにこの言葉を唱えなんかしないだろう。この言葉を若いうちに唱えるのは、壮年になってからもこの言葉を唱えることが恥ずかしくならないように身を引き締めるため。この言葉を壮年になってから座右の銘としてひけらかすのは、自分の成功を飾りたてるためのように思われる。

私は、客観的にはまだ若い。だが、20代であるからといって、<すでに・ここまで>生きてきたという経験は存在するのだし、そう生きてきたように<いま>考えている、ということを否定することは、絶対にできない。

考えたように生きることには、意志がいる。生きたように考えることは自然なことで、特に意志はいらない。だからブールジュのこの言葉が「名言」になるのだけども、だからといって、前者が後者に勝るなどとは、私には言えない。人間のごく自然な頭の働きを否定することは、人間の生の否定だ。自分に対して、ブールジュのこの原則を適用するとしても、人に対しても同じくこの原則を強制するのは暴力だ、と私は思う。

現に、私は「生きたように考えている」人、そしてそのことがその人のアイデンティティとなっている人を見てきている。私は、そのような生き方はしない。しないために、自分に鞭を打つために、この言葉を上に掲げている。だけれども、私にはそのような生き方を否定するだけの権限は、どこにもない。


「君の夢に導かれて生きよ」。結構なことだ。だが、問題に突き動かされないで生きていくことなんて、可能なのか。人は、多かれ少なかれ、問題に付きまとわれている。自分では選べない問題は、生まれつき持ってきてしまった問題とか、生まれつきの環境の問題だ。私は、どちらかというと問題が多いと言っても仕方がない環境下に、生まれついた。そして、それらの問題に対処しながら(今でも)、生きている。このこと自体も、否定することは出来ないし、むしろ、問題の存在を認めて、適切に対処しないかぎり私の生活の地盤は危ういものになる。私は必死に戦っている。

むしろ、このような生き方の方が一般的なのではないか。何が「問題」か? 一番原始的な問題は、「食べなければならぬ」。次には、「食べさせなくてはならぬ」。「守らなければならぬ」。「好かれなければならぬ」。「評価されなくてはならぬ」。「子供を育てなければならぬ」。「介護しなければならぬ」。だから、多くの人は一生懸命、愚痴を言いながらも働く。私もそのうちの一人だ。そうやって問題に対処しているうちに、そのことこそが「人生」だと思うようになる。そして、夢を忘れる。

前項と同じく、私は問題に対処することこそを自分のアイデンティティとしている人を見てきた。私には、このような生き方に対する強力な反発がある。エマーソンの言葉を掲げるのも、この反発からだ。私は問題に突き動かされて一生を終える気はないし、ましてやそれをアイデンティティとして生きていくような生き方は絶対にすまい、と思っている。だから、私は目下の問題に対処しながら、新たな問題を作らないことに努め、そして自分のやりたいことに自由に取り組む。

ただ、私がそのような生き方を選ぶからといって、「問題に対処する」生き方や、そのことがアイデンティティまでなった人を否定する権利は、私にはないのだ。これも同じく、他人に対して夢に導かれる生き方を強制するのは、暴力であると思う。人の生き方になぞ、口を出せるほど私は出来た人間ではないことを、心に留める必要があると思う。


以上を分かっていて、私はなお、上に掲げる言葉を自分への言葉として言い聞かせる。生きたように考えていることを認めながら、考えたように生きることだ。

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