2012/01/16

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芝居やパフォーマンスをいろいろと観ていると、作った人の頭の中は一体どうなっているのかを見てみたいようなものにたまに出くわすものだ。私にとって長谷川寧もその一人であって、彼の率いる冨士山アネットはふ今回を含めて2回しか観ていないのにもかかわらず、彼の創りだすパフォーマンスはそういう関心をかきたてる。

冨士山アネットのパフォーマンスを説明するのはとても難しい。いわゆる物語のある「普通の」演劇に観慣れていると、最初はどう観て良いものか解らず、戸惑うかもしれない。というのは「物語」があるのにもかかわらず、パフォーマンスはほぼ一切の言語を介さずに進んでいくからだ。観客の目の前に現れるのは演者の身体とその動き、音楽、そして記号としての小道具のみだ。冨士山アネットに特徴的なのは「コンタクト」と呼ばれる身体と身体との接触である。演者と演者が、ほぼ常にコンタクトをとることによって、なんらかを表現している。しかし、あくまでも言葉は使わない。これをどう観てどう楽しむのかは、かなりのところ観客の自由に任されている。

長谷川がポストパフォーマンストークで丁寧にも語る通り、観方の「答え合わせ」をしてしまうのはあまりにもつまらないことである。もっと言ってしまえば、長谷川は「正しい観方なんて存在しない」というスタンスをとっている。クリエイターはなんらかの意図をもってそれを作ったかもしれないが、それの解釈は観る者に任されているのだ。

そういう意味で「八」は、クリエイターの思いつきやらイメージやら、何やら悪夢めいたものまで、何でも詰め込んだ、豊かな幅のある作品であった。長谷川はチラシでも、当日のパンフでも、そしてパフォーマンス中たった一言だけはっきりした「言語」でもって表される言葉でも、確信犯的に観客に問うている。「あなたには、なににみえますか?」と。

舞台はファッションショーのランウェイのように細長く、これを客席が挟むような構造になっている。客入れの時には、自由か、ランダムでどちらか側の客席に通される。観客は、向こう側の観客を背景として、パフォーマンスを観ることになる(だから同じように、<私>もあちら側の舞台の背景になっている)。細長い舞台は時折、半透明のベールで縦に分断され、こちら側と向こう側で観客は違うものを観ることになる。

作中でモチーフになっている図柄は、それが何に見えるかによって精神状態を検査するロールシャッハテストである。劇に登場する心理療法士は、ロールシャッハテストの柄の入った衣装を着ている。心理療法士が患者である書けない作家に対して最初に対峙するシーンは、威圧的だ。クリップボードを苛立たしげにパッチンパッチンとさせながら玩んでいるに過ぎないのだが、それが一つの権威の象徴として立ち現われる。そして、重なったり離れたりのボディコンタクトの連続。ときには艶めかしくさえある身体表現。一つひとつの表現は、記号的だ。あからさまな記号ではなく、とても微かな、ささいな記号だ。その微かな記号が積み重ねられて、物語はそこに現前していく。物語は次第に、作業療法士が自分が治療をしているはずの作家に混乱させられ、自分がその作家の書く脚本の登場人物であるかのように錯覚するように進んでいく。この心理的な混乱の描き方は圧巻だ。

約80分間、舞台に登る言語以外のものによって、次々と「意味」が生成されていく。そして、その「意味」は隣の観客が考えているものとは違うものかもしれない。その意味で、このパフォーマンス自体が一種のロールシャッハテストである。そして、劇中で心理療法士が体験した「<私>は<あなた>」? で「<あなた>は<私>」? という自己イメージの混乱は、劇が終わった後、こちら側の客席に偶然にも座った<私>と、もしかしたらあちら側の客席に座っていたかもしれないが結果としてその席に座っている別の<あなた>という、もっと平和なメタファーとして立ち現われるのである。

【上演概要】
冨士山アネット「八」
作 演出 振付/長谷川寧
アトリエフォンテーヌ
2012年1月12日(木)~15日(日)
http://fannette.net/index.html

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