2012/01/10

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「何のために今この仕事をしているのか」ということを、かなり厳しく自分に問いただすようになった。企業の教育・研修に携わる会社に勤める私にとっては、人の能力向上だとか、「スキル」に関する仕事をなんでやっているのか、ということである。

昨年一年は仕事上においてもプライベートの面においても、正直いろいろとつらいことが多かったし悩みが多かったから、こういうことをより深く内省するようになった。考えてもみれば私ももうすぐ会社というものに勤めはじめて3年になる。こういうようなことをきちんと考えてみてもいい頃だし、自分の棚卸しのためにも文としてまとめておこうと思う。


様々な経験の中からさらに思いを強めたのは「人生というものは幸せになるのも、不幸に陥るのも、どちらもスパイラル状になっている」ということだ。幸せなこと、嬉しいことが積み重なれば、自分も幸せになるし、そうすれば新しい人やチャンスもそういう人に寄りついてくるようになる。逆に、不幸せなことや悲しいこと・しんどいことというのは、人を暗くするし、近寄り難い雰囲気にさせるから、そういう人には実際人は寄りつかなくなるし、ますます厄介なことばかりが引き寄せられるようになる。聖書には「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイによる福音書25章29節)という言葉があるが、全く恐ろしくツボをついている。

だからこそ、ここに私の根源的な問題意識があるのだ。持たざる者は持たざる者のままなのだろうか? 持たざる者は失うがままなのか?


実際2011年は私にとってしんどいことが多く、しんどいと思えば思うほどに、どつぼにはまるようにしてどんどんと辛くなっていった。楽しいことも私から逃げ去るように思われ、小さなアンラッキーなことばかりが目立って気になるようになった。自分の心身の調子の悪さを理由に行動が取れなくなり、おそらくとても多くの機会損失を発生させた。

ラ・ロシュフコーに「われわれは、幸せになるためよりも、幸せだと思わせるために、心を砕いている」という箴言があるが、これは何故かということを考えるには、上に引用した聖書の言葉と合わせて考えてみるのがよかろうと思う。すなわち、自分が幸せであるように装うための努力は、不幸な人、つまり「持たざる者」のように見られないがための努力なのである。なんとなれば、持たざる者はさらに奪われるから。


しかしながら(これは結構な人が同意してくれるんじゃないかと思うんだが)、自分を幸せに見せかけることは、実際しんどい(陰で「リア充爆発しろ」とか吐いてたほうがぶっちゃけ楽だし)。自分の境遇を考えながら、幸せそうに見える人にさらに幸せなことが起こっているのを傍目に見るのは、つらい。人の目には大概の場合「隣の芝フィルター」がくっついているものだから、一度隣の芝が青く見えだすと、なんでもかんでも青く見え始めるものだ。


「私がなんでこの仕事をやっているのか」という話に戻る。なぜに私が能力向上やら、スキルの向上やらという仕事に携わっているかというと、心理学の用語で言うところの「自己尊重(Self-esteem)」(注)に関係するからだと思うのだ。

学術的な定義はどうかは知らないが、自己尊重とは読んで字の如し、「自分のことを大切だと思い、慈しむ心の状態」のことだ。加藤諦三は「自己尊重」のことを端的に「心理的健康」と言い表している。自分なりに噛み砕いて言うならば、「世の中いろいろな人がいるけれども、”自分はこれでいい”と思えること」「人生いろいろなことはあるけれども、”自分は折れないでここに立っている”という心境(State of mind)」「きちんと自分は他者から評価されるべく評価されていると思えること」のことだと私は理解している。

(注)誤解の無いように記すと、自己尊重(Self-esteem)と虚栄心(Vanity)とは違うし、自己陶酔(Narcissism)とも異なるものだ。


能力の向上というものは、「自己尊重」にとても関係があると私は思っている。成長の感覚とでも言ったらいいだろうか。自分は着実に進歩しているだとか、自分はいい方向に向かいつつあるという感覚は、自分に自信を持ってやっていくために不可欠だ。どんな仕事をしていようが、どんな年代の人であろうが、「自分がいい方に向かっている」という感じは、心理的な健康を保っていくのに欠かせない。また、人からきちんと評価されていると思えることも、自己尊重にとってとても重要だ。

企業の教育や研修を扱う仕事というのは、いわば、そこで働く人に対して能力向上の機会を与える仕事だ。研修なり、他の我々のサービスを受けてみて、どう思うかは人それぞれだから、必ずしも100%の人に大満足を保証できるわけではない。だが、可能な限り我々は、我々のサービスを受けた後に「あ、これで現実がすこしは良くなりそうだ」と思ってもらって、実際に「スキル」を実行してもらい、自分と周りに良い影響や効果を残すことができることを期待して、ものを提供している。


「自己尊重」の反対に対して、何と名をつけるべきだろうか。加藤諦三に従うならば、心理的不健康とでも言うべきか。私は、敢えてこれに「生きづらさ」と名をつけたい。

注に記したのだが、自己尊重とは虚栄心でないし、自己陶酔でもない。虚栄や自己陶酔は自分の状態に対する一種倒錯した見方であるが、「生きづらさ」はむしろ自分の状態について自覚をしていることから生じる。何に自覚をしているのかというと、自分の折れやすさだとか、自分の力量であるとか、社会とか組織のなかでの自分の立ち位置だとか、自分の将来の不安定さとかである。そういうようなことに対して、自分が自信を持っていないことについて、自覚をしている。こういう感じを持つと、人生がとても生きづらいものに思えてくる。


「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。これは、自己尊重においても言えるだろう。健全な心理状態を持っている人は、ますますうれしいことが引き寄せられてきて、どんどん幸せになるし、「生きづらい…」と思っている人には、自分の理由でも自分外の理由でもあらゆることが「生きづらい理由」に変わってどんどん辛くなる。これはスパイラルなのだ。上昇気流に乗ればますます上へ、下降気流にのればどんどん下へいくのだ。

人生は長いのだから、一生必ずどちらかであるなどという事はないだろう。むしろ、上げ調子に乗っているときも、下げ調子に乗っているときもあるはずだ。だから、今下げ調子になってしまっていたとしても、突き詰めれば問題ではない。

あまりにも下に行き過ぎると、這い上がってくる手段すらがなくなるか、とても限られるということ、このことこそが問題なのではなかろうか。世の中ではこのことを「転落」と呼んでいる。少し落ちるくらいなら這い上がれるが、落ちすぎてしまえば、取り返しがつかなくなることがある。


私は幸か不幸か、昔から上に書いたようなことについて自覚的だった。というか、自己尊重を持っていないと、とてもではないが生きてはいかれない環境に身を置いていた。就職活動の時には巧く言葉にはできなかったが、この仕事を選んだ根底にも、こういう自分の経験があった。


仕事を通じて何を成し遂げたいか、などという大それた話は、未熟な私にはとてもまだ出来ぬように思う。だいたい成し遂げたいもの自体の正体が、まだ私にははっきりしない。だが、到着したい地ははっきりしないが、行くべき方向だけは私には定まっているような気がする。その方向性を表すキーワードの一つが「自己尊重」だということは、間違いがなさそうだと確信している。

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