2011/10/22

No Comment
レッスンはあらゆる場所に存在する。もしみずからの胸を十分に開いているなら、われわれはたいがいのレッスンを活かすことができる。そのことについて考え、分析し、検討し、問いかけ、反芻し、最終的によく理解しないかぎり、経験はほんとうに自分のものにならない。くりかえすようだが、重要なのは経験に使われるのではなく経験を使いこなすことだ。
ウォーレン・ベニス『リーダーになる』
白状すると、私はPDCAという考え方に昔から違和感を持っていた。私の所属する会社の提供している新人研修にも、当然のように社会人の基本としてPDCAは出てくるし、私自身も新人研修でこの考え方を習った。会社としてもPDCAという言葉は一般的に通用する風土になっているから、ことあるごとに「PDCAを回しなさいよ」ということを言われ続けた。「C・Aを報告しなさい」ということも言われた。≪計画し、それに従ってやってみる。やってみたことを振り返り、次に活かす。≫これは全く大事なことだ。文句のつけようがなく大事なことだ。だから、私の”PDCA”に対するこじれた思いは、会社の中では全くもって言い辛い。ましてや私は営業だから、今度は私が新人研修を企業に提案する側なのだ。自分の腑に落ちていないことを提案してもボロが出る。私がもうちょっと単純に事を理解をする人間ならばよかったのだが、この「社会人としての基本」は、「社会人」としては大いにこじれた私を、最初から悩ませていたのである。

≪計画し、やってみる。やってみたことを振り返り、次に活かす。≫この文句のつけようもない原則に対して私が抱いていた違和感というのは、あまりにこれが「正しすぎて」、まるで金科玉条のように濫発されていることに由来をしていた。思い返してみれば、私が主に「PDCAを回しなさいよ」と言われたのは、仕事で失敗をしたときであった。失敗からは学ばなければならない。PDCAを回し、次に活かさなければならない。その通りだ。だが、何なのだろう、この苦々しい感覚は?

私の頭に浮かんだのは、学校教育の「反省文」の文化だった。我々の多くは、学校のなかで何かを「しでかす」と、先生にとっつかまって「反省文」を書かされるという教育を経験してきている。とりあえず原稿用紙を渡されて、自分がいかに「しでかした」のか、いかに反省をしているか、もうこりごりです、もうしません、ということを書かされるというあれである。実際のところ、こんなものは文が書ければどうにだってなることだ。だから、反省文を書くことそれ自体には「反省」の意味はなく、「しでかした」ことに対して課される罰という意味合いのほうが大きいのではないかと私は考える。なぜなら、良心のきちんとある子ならば「しでかしてしまった」後に自らちゃんと反省をするはずだし、なかなか反省しないガキ大将だって先生にとっつかまって最初にかけられた一言二言の訓戒で「しまった」と思うはずだからだ。

大切なことは、「学習は失敗それ自体から生じるものだ」ということだ。この学習こそが最も大きく、本質的なものだ。それに付随する「罰」からの学習は、失敗それ自体からの学習とは質が違う。たとえば、反省文を書かされるという「罰」から学ばれるのは、「今度は見つからないようにやろう」だとか、「反省文をサクサク書く方法」や「反省の色が巧く表せる文章」だとか、「●●先生の怒りのおさめ方」だったりするはずだ(学校で反省文をよく書いていた人、胸に手を当てて考えてみよう!)。

私のPDCAに対する違和感は、ここにあった。失敗したときにより多く「PDCAを回しなさい」と言われる。私はすでに失敗をしているので、痛い目を見ているし、それ自体から学んでいるのだが、追って言われる「PDCAを回しなさい」は、私にとってそこからさらに「反省をしなさい」と言われているような、言ってしまえば罰のような苦々しさがあったのだ。そのうえ、PDCAは文句の言いようのない原則であるから、その違和感を言い出すことはできない、ということが苦々しさを倍増させた。

ここまでで、私のことを屁理屈なガキンチョだと呼ぶのは全く自由だ。そう見られても仕方がないと思う。だが、当然のもの・まったく真理だと受け入れられていることに、クリティカルに迫っていかずして、「仕事の基本」という永遠のテーマの面白みが引き出せようか? 大原則を金科玉条として繰り返すだけでは、事の本質には辿り着けないのだ。

PDCAの本質はもちろん上記に挙げたようなことではない。PCDAというのはプロセスではなくて、サイクルだ。PDCAは次に繋がっていくためにある。次に繋がっていくため「だけ」にあると言い切ってもいいかもしれない。そして、真のPDCAは成功からも失敗からも、あるいはそういった単純な二分法で言い表せない雑多なことからも、学習をし、次に活かす。ところが、我々は教育する立場の者として学習者にPDCAを指導するときに、往々にして誤ってそれを用いるのだ。以下は「PDCAの罠」の例である。

(1)PDCAを「失敗から学ぶ」ということに強調しすぎる。その結果、「PDCAを回しなさい」という指導が、学習者にとって「罰」のように映るということ。

題して、反省文の法則とでも呼ぼう。これの誤りは二つ。「成功からも学ばせていない」ということ、「失敗それ自体からダメージを負い、十分そこから学びを得ているはずの学習者に、追い打ちのダメージを与える/もしくは誤った学習を促す(例:今度はこんな面倒臭いことを言われない程度にほどほどにやろう)」ということである。「C・Aを報告しなさい」という指導をした場合、この罠に陥ることが多い。

(2)次に挑戦するチャンスがないことについて、PDCAを適用させること。

あえて断言するが、次がないことにPDCAを適用する意味はないと私は考える。ところが、「転んでもただでは起きぬ」という「モッタイナイ」思想があるので、なにかと「PDCA!」と言いたくなることがある。成功してそれを言うならば特段害はないのだが、次に挑戦するチャンスがないのに、「反省文の法則」が働いて「PDCAを回せ」と来るならば、学習者にはただ苦々しさだけが残る。

(3)PDCAから「恐怖」という誤った学びを引き出させてしまうこと。

失敗は本質的に恐怖を生み出す。失敗は次それをやることについて、躊躇する心情をどうしても生み出してしまうものだ。誤ったPDCAは、したことを振り返る過程でその恐怖を増長させる。「やったことは誤っていたから、もうやめよう」という学習を促してしまうことがある。PDCAに時間を掛けさせるほど、そうなる傾向が強い。また、「反省文の法則」が働いてPDCAが学習者にとって罰のように受け取られているならばなおさら、次にそれをすることについて躊躇する気持ちが強くなる。これについては、冒頭に引用したウォーレン・ベニスの『リーダーになる』の別の箇所が的確に答えを与えてくれるだろう。

どんなにすばらしいバッターでも二回に一回以上はヒットを打ちそこなっているのだ。それなのにわれわれは、ちょっとでもヘマをすると金しばりにあってしまう。失敗が頭にこびりつき、またヘマをやらかすのではないかと怯え、その結果、なにをするにもびくびくしてしまうのだ。競馬の騎手は、落馬してもふたたび馬にまたがる。そうしなければ恐怖によって自分が動けなくなってしまうことを知っているからだ。F一四のパイロットは、緊急脱出しなければならない事態に遭遇しても翌日は別の戦闘機に乗り込む。

継続することこそがPDCAの本質だ。PDCAによって中断されることは、その本質ではない。


PDCAは単純で、正しい。だからこそよく使われるし、その誤った用法が顧みられず、そのまんま金科玉条のように使われることも多いのではないか。ウォーレン・ベニスが強調するように、重要なのは経験に使われるのではなく経験を使いこなすことだ。PDCAは経験を使いこなすための道具であって、経験に使われるための拘束具ではないのだ。

0 comment :

コメントを投稿

 
Toggle Footer