2011/09/16

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倫理的な行動をとった結果としてたとえ罰されたとしても、その行動をとり続けるという事、また、他者の非倫理的な行動が報われていたとしても、自分はそのような行動はとらないと律することができること――このようなことを「倫理的」であるというのではないだろうか、と私は思うである。

組織行動学の文脈の中で「学習(Learning)」は、「経験の結果として起こる永続的なあらゆる行動の変容(Any relatively permanent change in behavior that occurs as a result of experience)」と定義されている。私はこの定義が好きである。学習とは何も学校に行くことでもなければ研修を受けることでもない。学習はいつでも――こうして文を書いて発表したり、職場で隣の席の人と話しているときでも――起こっていることなのだ。

これはとても行動主義的な心理学の説であるが、ソーンダイクの「効果の法則(Law of effect)」というものがある。これは、行動とその結果についての法則である。


即ち、行動に続く結果が好ましいものであるならばそれは繰り返され、好ましくないものであるならば、それは繰り返されなくなるというのが「効果の法則」である。


これは、とても理解しやすい法則だ。やってみていいことがあったら、またやってみようと思うし、悪いことがあったら、もうやるものかと思う。人はそういう風にして学習していく。「効果の法則」は簡単に言うとそういうことだ。

私はこの行動主義的な学習の理論を、組織行動学の中でもよく論題に挙げられる「倫理的行動」との兼ね合いで論じてみたいのである。ここではひとまず「何が倫理的行動なのか」という問いは棚に上げることにする。「効果の法則」と「倫理的/非倫理的行動」を掛け合わせると、組織の中では以下の4つのパターンがあることになる。

  1. 倫理的な行動→好ましい結果
  2. 倫理的な行動→好ましくない結果
  3. 非倫理的な行動→好ましい結果
  4. 非倫理的な行動→好ましくない結果

1と4には問題がない。とても健全な組織の状態だと言えるだろう。だが問題になるのは2と3だ。現実には2のように、倫理的な行動をとっても、それが無視されたり、あるいはむしろ組織の中で「目の上のたんこぶだ」として罰されたり貶められたりすることはあることだ。

また、学習は自らの経験から生じるものであるのみではない。学習は他者の行動に対して与えられた結果を見ることからも生じるものである。3のように、他者が非倫理的な行動をとっているのにもかかわらず、それが組織の中で報われている――褒められていたり、昇進に影響をしている――ということを見ることも、「学習」を生じさせる。

つまり「学習」はなにも倫理的に「良い」ことのみならず、「悪い」ことであっても、「効果の法則」に照らし合わせてみるならば常に生じているということが言える。2のように倫理的行動を止めてしまうことも組織内での「学習」であるし、3のように倫理的に悪いことであってもそれが組織内で報われたり、あるいは生き残るのに必要なことであるならば、人は非倫理的な行動をとるように「学習」をしていく、と説明するのが「効果の法則」である。

2や3のような事柄というのは組織に根付く悪しき文化のようなものだ。「あいつは良い奴だったのに、あの仕事を始めてから人が変わってしまったようだ」いうのは、つまりこの意味での「学習」のことを言っているのである。

だが、とはいえである。人というものはそんなに「学習」に対して単純なものだろうか、とも一方で思うのだ。倫理的行動に否定的な結果がもたらされ、非倫理的な行動が報われるような環境の中で、そうたやすく人は倫理的行動を止めてしまったり、非倫理的行動を環境に「適応して」とるようになるものだろうか? 大方の人は影響(effect)されるだろう。だが、だからこそ、ここにきて「影響されない」ということの価値がでてくるのだ。

ここで最初に棚上げにしておいた「倫理的であるとは何か?」という問いが立ち上がる。倫理的であるとはどういう事かを定義しないままにこのようにいう事は論理的には倒錯があることを承知の上で言うのだが、その行動をとって罰されたとしても「倫理的である」と信じる行動をとり続けること、また、他者の非倫理的な行動が組織の中で報われていたり、周りも当然のように非倫理的な行動をとっているというような環境であっても、自分はそのような行動はしないということこそが「倫理的」なことだ、とは言えまいか。言い換えるならば、「倫理的である」とは、「効果の法則」に反して、自ら「学習をしない」ということを選びとれるということなのではないだろうか?


モデルに例えてみるならば、それは「フィルター」のようなものだと言えるだろう。自他の行動の結果から、「それでも(あえて)」する/「それでも(あえて)」しないと選択をかけるためのフィルターとして、「倫理」は機能しているものではないか、というのが今のところの私の考えである。

このモデルが正しいとするのであれば、「倫理」とは「学習」の一つ上の次元にあるメタ的なものである。しかるに、「倫理観」それ自体は学習できるものか、という問いが次に立ち上がるだろう。この問いについては、本稿で答えをだせるところではないので、またいつか考えることにしようと思う。

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