2011/08/19

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信頼とは、相互作用の産物だ。こちらが信頼を示せば、あちらも信頼を寄せてくれるようになる確率は高くなる。そして不信もまた、相互作用の中で育まれる。こちらが不信を示せば、あちらも不信の態度に出る確率が高い。ただし、これは確率の問題であることには注意をしなければならない。「信頼は信頼を呼ぶ。不信は不信を招く。」という格言にできるならば格好良いのだろうが、残念ながらそうとは言い切れない。必ずしも信頼が信頼を呼ばない場合もある。こちらが信頼を示しても相手から裏切られるというケースは、どうしたってありうるものだ。

であるならば、他者と対するときに取るべき態度とは何なのだろうか。それは、相互の関係性を建設的なものにするべく、進んでこちらから信頼を示しながら、一方で相手が背信をしてきた時であってもこちらの損害は最小で済むように予防線を張っておくことではないだろうか。

対人関係の話で、こちらの損害を最小化するための予防線を張っておくとは、いささか聞こえが悪いかもしれない。人のことを信頼することは大切だ。だけれども、他者を信頼しすぎて損害を被ることがないように、だれしもが無意識に他者との距離感は調整しているはずだ。人とのコミュニケーションの要諦のひとつは、たとえそのコミュニケーションが崩壊したとしても、取り返しがつかないことにはならないようにしておくことなのではないか、と僕は思う。たとえそのコミュニケーションが崩壊してしまったとしても、許容可能な損害に自分でとどめられること、リカバリーできるポイントまでにしておくこと、それが責任を持ったコミュニケーション、というものなのだと思う。

人のことを信頼することで被るかもしれない損害に対してリカバリーポイントを作らない/作れない人は、二種類に分かれる。一つは、盲信する人・依存する人。もう一つは、そもそも人のことを信頼しない人だ。

前者は、人を信じることについてナイーブな人だ。こうした人は、人を信じることで傷つけられた後、後者に転じることも多い。後者は、対人関係上の戦略としてそもそも人のことを信頼しないという戦略をとる。だけれども、自分に損害が及ぶことを恐れて、なんでもかんでも人には不信の態度で臨む人は、コミュニケーションの経済学が分かっていないのだ。

現実の世界の経済学は、AさんからBさんに1万円を渡して、BさんからAさんに1万円を返したとしても、1万円の価値はずっと1万円の価値のままだし、1万円から2千円を引いたら8千円だ。現実の世界の経済学は足し算と引き算で成り立っている。ところが、コミュニケーションの世界では現実にはありえない経済学が成り立つ。信頼は、二者の間で交換される度に、その価値を倍加して増していく。信頼とは、交換される度に価値を倍加的に増していくという富なのだ。ただし、減る時も累乗的に減っていくという恐ろしい富でもある。これが、コミュニケーションの経済学だ。

人に対してとりあえず不信の態度で臨む人は、人と信頼関係を構築して得ることができる利益にあずかることができない。そして、直に自分もまた誰からも信じられなくなってしまう。信頼は信頼を呼ぶとは限らないが、不信が不信を招くのはおそらく確実だと思われるので、先んじて人を信頼しない人は、こうして誰も信じられず、誰からも信じられない人になっていく。

思うに、人と関係を構築するとは、常にリスクテイキングなのだ。その人は、実はすごく素晴らしい人かもしれないし、人のことを裏切るような人かもしれない。それは、関係を持ってみないと分からないことだ。最悪、その人と関係を持ったことによって損害を被ったり、後悔をすることだってあるだろう。でも、重要なのはそういう場合でも、損害の幅を許容できる幅までにしておくことだと思うのだ。人と関係を持つことのリスクテイキングができない限り、人と関係を持つことで得られる利益にもあずかることができない。

「コミュニケーション力」のことがとやかく世間では言われている。この曖昧な言葉は僕が使うのが嫌な言葉の一つではあるのだけれども、上に綴ってきたような事柄は、この言葉で一括りにされている問題のある部分を占めるのではないか、と僕は思っている。

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