2011/07/19

One Comment
友人が悩んでいたり、辛い状況にある時、どういう風にして声をかけるか、という状況に際した時に、私たちは「うん、そういうことってあるよね…」という言葉を、慰めや、共感を意味するものとしてかける。私自身もそういう言葉を友人にかけることがあるし、私自身が苦しい状況や、辛い状況にある時にも、友人からその言葉をかけられることがある。

しかしながら、「そういうことってあるよね…」の意味するところとは、何なのだろうか。慰めを受ける側というのは、往々にしてその言葉をかけてもらうことに対して、幼稚で横暴な側面を見せるものだ。まるで自分が苦しんでいることを、転じて自らの誇りのように、多数の人の慰めの言葉を掛けてもらうに値する立派な傷であるかのように、見せびらかすのである。人というものはそういう幼稚な側面があるということを勘定にいれてもなお、「そういうことってあるよね…」と声を掛けられて、なぜ「被害者」は逆に「お前に何がわかる」と苛立ったり、「やっぱり人は分かってくれない」と失望を見せるのだろうか。


<わたし>と<あなた>の間には越えられない経験の違いがある、ということは考えてみると分かることだ。<わたし>は、何をどうやっても<あなた>が経験した苦しみや辛さがどんなものであったのかは、「経験」し得ない。「経験」し得ないからこそ、どれだけ<あなた>が苦しんだかを理解できるかは、<わたし>の想像力に委ねられる。<わたし>にできることは、<あなた>の話を聞いて想像することだけである。換言すると、<わたし>は、<わたし>の想像力を通じてしか<あなた>の苦しみを理解し得ないのである。

ここに、ひとつ<あなた>の苦しみを理解することへの壁がある。なんとなれば、人の苦しみや痛みを理解するという想像力を発揮することは、とても苦しいことであって、できるならば人はこれをしたくないものだからである。本当の意味で人の苦しみや痛みや辛さを理解するということは、自らも苦しみや痛みや辛さを「追体験」するということだからだ。そしてさらに、「想像」はある人の既に手許にある材料としての経験の中からしか、し得ることができないことであるということが、他者の苦しみへの想像力の発揮を妨げる。人は、大概の場合、他者の話を選択的に聞いており、純粋な意味で聞いていることは少ない。ほとんどの場合、人は自分の経験にある範疇でしか、他者に共感を示すことができない。自分の経験にないことについては、人は他者に共感を示すことが、ほとんどの場合できないものなのである。こうして、人は往々にして選択的に聞き取れた部分についてのみ共感を示し、選択的に聞き取らなかった部分については共感を示すことができない。そして、慰めを受ける側として慰めを受けたいポイントは、往々にして慰める側とずれているものなのである。

以上にふたつ、私たちが他者の苦しみを理解することを妨げる理由を挙げた。他者の苦しみに対しての想像力を発揮したくないということと、そもそもの想像力を欠いている、ということである。そこで、私たちはこの想像力をショートカットするために、ステレオタイプを活用する。それが、冒頭にあげた「うん、そういうことってあるよね…」である。このあまりにもよく用いられる言葉は、つまるところ、私たちが共感をすることによって使う精神的なエネルギーを省力化するため、そして私たちの中にある「苦しみ」のライブラリー†を素早く検索して、近似したケースがあることを手軽に示すための言葉だったのである。

†果して、私たちが他者の苦しみに大して共感を示すときに、本当にそういうことが苦しいことであると理解して共感を示しているのか、それとも、「そういうことはいわゆる辛いことである」という伝え聞きや、フィクションや、刷り込みに基づいて共感を示しているのか? 私たちの中の「苦しみ」のライブラリーは、大方において私たちが社会的コンテキストの中からダウンロードして、「知っている」と言うために、使いまわしているものに過ぎないのではないか?

とはいえ、むべなるかな、共感を表したくても、大概の人は実はそんなに多くのボキャブラリを持ち合わせていないものだから、慰める人は「そういうことってあるよね…」としか言えなかったのかもしれない。おそらくこれが三つめの壁であって、私たちが共感を示すための適切な表現力を往々にして持っていない、ということである。

実に人を理解するということと、それを人に示すということは、難しい。私としては、自分がどちらの立場である時であっても、これらのことは考えたひとの責任として、考えておかなければいけないと思っている。自分が慰められる立場なら想像力の引き算を、自分が慰める立場なら想像力の足し算を使って。

1 comment :

  1. こういうことを考えるときってありますよね...

    なんて冗談はさておき(冗談にしては少し示唆的ですが)、
    僕の場合は、今回の地震を受けて、「共感」することについて今以上に考えるようになりました。
    というのも地震は、「あるある」とは絶対に言えないレベルのことで、
    三林さんの言う3つの問題点をとても明確に突いているからです。

    でもおそらく、僕たちはこれから「地震で東京に来ざるをえなくなった人」と多かれ少なかれ関わることになるはずで、
    そのとき僕は、ごく自然に(というよりも相手が気持ちよく)彼らと関われるかどうか、正直自信をもてません。
    今は、なるべく情報を遮断し、その分を"想像力"で補うことで、今回の件を強烈なトラウマで片付けないようにしようと思っていますが...

    kobori

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