2011/07/13

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人は必ず死ぬ。だから、ある個人が学習したこと・成長したことは、他者にきちんと引き継がれた部分を除いて、その人の「死」によって全てご破算になってしまう。そして、ある人が学習したこと・成長したことを他者に引き継ぐということは、恐ろしく難しいことなのだ。

人材育成とか、パフォーマンスの向上ということに携わる会社として、今僕のいる会社は、「行動科学」とか「行動分析学」と言われる理論を拠り所にしている。「行動科学」の創始者ともいうべき、バラス・スキナーも、おそらく同じことを考えていたのだと思う。

スキナーはBeyond Freedom and Dignity(1971年)の序章において、

What we need is a technology of behavior.
我々に必要なのは、人の行動に関するテクノロジーなのだ。

と、やや熱っぽく問題を提起している。

Physics and biology have come a long way, but there has been no comparable development of anything like a science of human behavior. Greek physics and biology are now of historical interest only (no modern physicist or biologist would turn to Aristotle for help), but the dialogues of Pluto are still assigned to students and cited as if they threw light on human behavior. ... we have made immense studies in controlling the physical and biological worlds, but our practices in government, education, and much of economics, though adapted to very different conditions, have no greatly improved.

形而下のものについての学問や生物学は、長い道のりを歩んで進歩を重ねてきた。しかし、人間の行動については、これに匹敵するような科学の進歩はこれまでなかった。古代ギリシャの物理学や生物学は、もはや歴史的な関心を呼び起こすものに過ぎない(現代の物理学者や生物学者はアリストテレスの研究を援用することなどないだろう)。だが、プラトンの対話篇は現代の学生にも読みつがれ、そして引用される。なぜならば、それらはいまだに人間の行動を解き明かすに助けとなるからである。(中略)我々は、形而下の世界や、生命に関する事柄については、これを制御し管理するために膨大な研究を行ってきた。だが、我々の政治や統治に関する事柄、教育、経済に関する諸々の事柄については、その場その場で良いように適応されているものの、(歴史を鑑みると)「進歩してきている」とは大して言えないのである。

(以上拙訳)

スキナーの言いたいことというのは、賛同するかどうかは別として、よく分かる。太古の昔から、科学・技術は進歩を重ねてきていて、人間の暮らしを着実に良くしている(improve)のにもかかわらず、人間の行動はたいして昔から変わらない。人間は相変わらずミスを犯すし、誤った判断を犯す。人類があいも変わらず繰り返す悲劇には「戦争」がある。今後の人口爆発や環境汚染を考えたときには、いわゆる「科学・技術」と同じように「人間の行動」についてもテクノロジーの対象にしていかないといけないよ、というスキナーの主張には、平和を願う切なる要求とともに、何というのか、人間がいつまでたっても過ちを繰り返すことに対する苛立ちみたいなものさえ見える気がする。

スキナーのラディカルな主張に対しては、アンチも多いという。僕自身も手放しに賛同することはできない。果して人間の行動が科学され、「完璧」にどんどん近づいて行ったときに、それは幸せな世界なんだろうか? と即座に疑問を挟んでしまうのは、僕がやっぱり不完全であり、……いや、不完全でいいじゃないか、と思っている人間だからである(会社が「行動科学」を標榜しているのにも拘らず)。

ただ、スキナーが提起した「人間の行動は歴史を通しても大して進歩していかないじゃないか」という問題については、うならずにはいられない。僕は、これにはやっぱり「死」ということが関わってくるのだと思っている。冒頭に挙げたとおり「死」で人が学んできた事というのはほぼご破算になってしまうからだと思うのだ。人間は、自分が生きる過程を通して常に学び続けていて、「成長」をすればするほど過ちを犯さないよう学習している(これ自体も怪しいが、ここではこう仮定する)。だが、その知見は人生の先輩から人生の後輩へはあまり共有されず、あるいは共有されても若い人には理解できず、若い人は自身の経験の積み上げによってしか、学ぶことができない、ということが往々にしてある。そして、人生の先輩は、大概の場合後輩よりも先に死んでしまう。こういうことを人類全体の視点から見てみると、知見は積み上げられては失われ、積み上げられては失われ、の繰り返しになっていると思うのだ。

スキナーは人類全体を共同体として捉えていて、共同体の「進歩」のことを問題にしている。でもそんな大きな話ではなくして、話をある組織、たとえば会社という組織の中での文脈で考えることにして、「死」を「その組織からいなくなること(≒退職すること)」と置き換えると、多分組織も「進歩する」ということが難しい、というのが分かりやすくなる。組織の中のあるメンバーが個人として積み上げた「学び」は、その組織の中でパフォーマンスをあげるのに役に立つ。ひいては、それは組織の利益につながっていく。だが、その人が組織からいなくなってしまうと、その人固有の「学び」もいっしょに失われてしまう。そして、往々にして組織は「個人の学び」を「みんなの学び」にしておくことに失敗をしているので、組織としての学習は人の入れ替わり立ち代わりによって、遅々として進まないのである。

僕は仕事が人材育成に関する事だから、いかに個人のパフォーマンスをあげる能力を向上させるか、というところに目がいくのだけれども、その人が出て行って、かつその人が組織には「学び」を置き土産として残していかなかったら、すっぽりと組織には穴が開くわけなので、究極的に「人材育成」の目指すところというのは、組織としての学び、というのか、組織としての成長というのか、そういうことなのだろうな、とぼんやりと最近は考えている。

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