2011/04/14

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狭義のリテラシー能力(読み書き能力)の有無が生死に関わるという、単純にして厳粛な事実は、アマルティア・センを引くまでもなく理解されるだろう。これをセンは「人間の安全保障」と呼んでいるんだけれども、識字率なら99.8%を誇る日本において、生活を苦にして今日も明日も人が死ぬ。もちろん識字率の低い発展途上国とは話のレベルが違うことは承知だけれども、この日本という社会で「人間の安全保障」なんてものが、本当に機能しているのかと疑われるのはなんでなんだろう。

僕は、広義のリテラシー能力の高低が、「何かあった際」の生存率に関わってくる、というエグい世界観に、日本はなってきているんじゃないかなと、思っている。そしてさらに厄介なのは、その広義のリテラシー能力というものが、巷でいうところの「コミュ力」ってものに近いのじゃないかという気がしているからだ。

ムラ社会というもののは、良くも悪くも、人が孤独でいることを許さなかった。むしろ孤独は、「追放」(=村八分)という形で、意図的に作られるものであった。しかし、「追放」というのは、現に存在するコミュニティがあってこそのものだ。良くも悪くも、この平成・東京という都市に生きている限り、そういうコミュニティというのは感じられない。コミュニティというのは、僕らにとって選んで所属するものであり、あるいは自分で作り出すものだからだ。ソーシャルメディアの発展が、なお一層こういった傾向を加速させた。現代においては、意図して作られる「追放」は、もはやドラマだ。その代わり、ひそやかに、意図せずに、日常の中に「疎外」が潜んでいるのだ。

僕は一人暮らしをしている。会社に所属して、サラリーマンをしているから、もし僕が自室で何かがあって、しかも助けを呼べない状態になったとしても、様子がおかしいことを察知して会社が僕を探しに来るだろう。会社というのは、一つのコミュニティとして、こういう非常時の際のセーフティネットとして機能する。結婚していれば、家族がいることになるから、なおセーフティネットが重なる。もしなにかがあっても配偶者が対応してくれる。

でも、世の中には会社に所属できない人も、結婚できない人もたくさんいる。「大人」になってもである。割と、そういうことが問題として表面化してきているから、大嫌いな言葉なのだけれども敢えて言うけれども、「コミュ力」のない人―コミュニケーションをとることが苦手な人は、就職や、結婚、恋愛、もろもろにおいて不利にならざるを得ない。コミュニケーション力というのは、コミュニティに所属する力/コミュニティを作る力とも言い換えられるものであって、そういう人の温度のするところには、どうしても溶け込めない人というのがいるものなのだ。営業が苦手な人もいれば、モテない人もたくさんいるのだ。

僕のしている仕事というのは、人材育成とか研修というお仕事で、人のコミュ力をアップさせることを支援するというお仕事だ。この仕事は、究極的には人の生存能力を高めるものであると僕は思っていて、生存能力と言って分かりにくければサバイバル能力と言い換えてもいい。人とコミュケーションを有効にとる能力、そして適切な自己管理能力を身に着けていれば、最悪会社がつぶれたとしても、大切な人を失ったとしても、次の食い扶持や生きがいを探すことができる。新たなコミュニティに参加したり構築したりするだけの能力が持てているということだ。しかし、コミュ力と自己管理能力が低いと、何かがあったときの耐性が低くなる。会社に所属していても、そこから転落してしまったら、まず食い扶持が危うくなる。自分のメンタルも次第に危うくなり、自信がなくなってくる。そして負のスパイラルでどんどんコミュ力が低下していく。こうして階段を転落していくのだ。
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先進国であれ、識字率の低い発展途上国であれ、結局のところ、保有する能力が生存率につながるんだろうなと思う。人材育成の仕事というのは、人の中に「生存する能力」というアセットを構築(Instruct)する仕事であって、とても崇高であると同時に、選ばれた人だけに教育機会を提供する/対象外の人には教育機会を提供しない、という大変エグい世界でもある。

大震災の混乱の最中に、秋葉原事件の加藤に死刑判決が下った。加藤は救いようがなかったのだろうか?

「人が足りないから来いと電話がくる。俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから。誰が行くかよ」

コミュニケーション能力と有利な条件での被雇用の可能性が結びつくこの社会においては、加藤のこの言葉は重い。どうして彼には「安全保障」が働かなかったのか、腐ってもジンザイ業界の僕は考えなきゃいけないと思っている。

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