2011/01/10

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ダメなものはダメなのでしょうか。ダメなものはダメと言うからダメになっていくのでしょうか。この幼く拙い問いには、それ故に人間を洞察する上での深い哲学があると思います。

僕は後者の考え方をとります。ダメだと言うからダメになっていく。裏を返せば、良いと言うから良いものになっていく。そういう人間観は、僕が人材育成という仕事に関わっている、その根本にあるものでもあります。人材育成とは、人を「良く」するものであって、「ダメなものはダメ」と言ってしまったら、そこから人材育成は出発することが出来ないと思うからです。

「ダメと言うからダメになっていく」という人間観をもう少し掘り下げてみると、「最初に」良いものもダメなものもなくて、良いと言うか、ダメと言うかによって決まっていく、ということになります。良い、良いと言われたものは本当に良くなっていって、悪い、悪いと言われたものは本当に悪くなっていく。良いものになる、悪いものになるということは「後から」行われることだ、という哲学が、この人間観の中にはあります。

この人間観の中には、対象に対しての判断を下さずに、ひとまずありのままを受け入れて、それを信じるという倫理があると言えます。自らの中の「判断」まで行かずとも、ある人に対して「ああこの人ダメっぽいな」「ダメなのかな」と思うこともあるでしょう。「判断」や「断定」の水際の、「予兆」と言うのか、「予感」とでも言うのでしょうか。僕自身も、そういう目で人から見られていることも多々あることと思います。しかし、その「ダメっぽい」を「ダメ」と「断定」にせず、とりあえず信じてみて、良かったことを積極的に「良い」と言うことのほうを優先すること、そういう倫理がこの人間観にはあると言えます。換言すると、良いかダメかの「最終的な」判断はとりあえずペンディング(Pending)にしておく倫理、とでも言えるでしょう。

僕の友達はしきりに自分のことをダメだと言います。そういう癖がついているかのように、よく言います。僕は彼女に良いところがあると思っているので、良いと言い続けます。僕自身は、彼女が良いかダメかは大して関係ないと思っていて、本当のことを言ってしまえば「ダメなところ」なんて、「良いところ」の裏返しであって、どっちに捉えるかの問題だと思っているのです。僕にとっては良いと信じられる何かがその人の内にあることだけが重要で、良いかダメかの判断なんて延々に先送りしていていいものです。言い換えれば、「この人はこういう人だ」と決め付けない/決め付けられないからこそ、僕にとっては付き合っていられるのであって、「こういう人」という像(イメージ)は、会話をすればするほど「後に後に」ずれていきます。逆に、「この人はこういう人」という像が固まってしまったら、たぶん友達としては面白くなくなると思います。

僕が思うに、「判断の先送り」こそ、人と人が付き合っていく上での極意だと思うのです。「この人はどんな人?」という像を思い描きながら、つねにその像が後に後にずれていくほど、スリリングで楽しい付き合い方はないと思うし、新しい可能性というのはその「ずれ」からこそ生まれてくるものだと思うのです。一方で、「この人はこんな人」と決めてしまう/決まってしまうこと、そこからは下降線しか描くことができないと思うのです(「この人は良い人」「この人はダメな人」とあらかじめ決めてしまうことによって、世界中でどれくらいの悲劇が起きているでしょう?)。

それは、他人のみならず、自分自身のアイデンティティという、得体の知れないものと付き合う上でも、同じことだと思います。「自分とはこういう人」と判断をしてしまった瞬間から、人生は面白くなくなると思うのです。と同時に、「自分とはこういう人」と決め付けないということは、まったく得体がしれないふわふわとした「自分」と付き合うことでもあるので、「宙ぶらりん」で「不安」な(Suspense)ものでもあるけれど。

(おや、いつの間にか鷲田清一仕込み&デリダ風味なアイデンティティ論になってしまったぞ…。)

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