2010/07/10

ラブレターを書くとき、人は一時間も二時間も掛けてほんの数行をしたためる。その時、人は誰でも作家になるのだ、と思う。

何とか書き終えたあと、その文面を読み返して、美文とも言えず、思いも的確に伝えられているとも思えず、美しく「私」を表現しているとは言えない文字(キャラクター)に失望する。結局のところこれは「愛しています」の一言でよかったのではないかと胸を塞ぎながら手紙に封をするとき、人知れずついたため息の分だけ人は大人になるのだと思う。

僕がかつての恋人と手紙の交換をしていたとき、そのようなことをしようと言ってきたのは彼女のほうであった。メールも当たり前に使えるこの時代において、彼女には手紙でやりとりすることへの憧れがあったのだ。恋人は似るものだ。僕にも同じような憧れがあることを、そして手紙を出せば、僕が返すであろうことを、彼女は分かっていたのだ。

僕は一時間も二時間も掛けて、ほんの数行をしたためて、その不完全さを悔いながら、何度か彼女と手紙でやりとりをした。真っ暗な部屋で、机の蛍光灯だけで孤独に、遅く遅く文をしたためるのは切なく、甘美な時間であった。

ときに、アントニア・フレイザー編、吉原幸子訳『恋文』という本を手に入れた。キュリーが後のキュリー夫人となる人へ宛てたラブレターに始まる様々なラブレターを編纂したこの甘美なアンソロジーは、僕にそんな過去を思い起こさせるのであった。

この本に編纂されているようなラブレターというのは、有名であったり、偉大であったりするひとだ。ほかにも、スタンダール、ボードレールといった文人、モーツァルトやシューマンといった音楽家、ローザ・ルクセンブルクという政治活動家まで入っている。しかし、「恋文」という地平においては、そんな肩書きは関係ないということが、この本では逆説的に証明されていると思う。人としての恋する気持ちや、嫉妬する気持ちには、肩書きなどは関係が無い。

人間としての気持ちが、執筆という恐ろしく分厚いフィルターを経てどろりと文字に起こされた結果としてのラブレターは、もはや文学でありドラマなのだ。そんなことにも気付かされる。

これは、『グレート・ギャツビー』で有名なフィッツジェラルドの妻のゼルダが彼に宛てた手紙の冒頭である。


 愛する人へ
 お願いよ。どうか、どうかそんなに気持を滅入らせないで――あたしたち、もうすぐ結婚するんじゃありませんか。そうすれば、こんな淋しい夜なんかもう永久に終わるのよ――その日が来るまで、あたしあなたをずうっと愛し続けます。夜も昼も、ほんの一秒も休まずに愛し続けます――きっと分かってはいただけないでしょうけど、時々あなたに逢いたくてどうしようもなくなる時があって、そんな時には一番お手紙が書けないの――どんな時に淋しくてたまらなくなるかは、あなたもよくご存知よね――ほんとに、その辛さときたら――しかもその辛さを直接お話できないんですもの。もし一緒にいたら、あたしがどんなに淋しがっているか分かっていただけるでしょうにね――あなたって、自分が憂鬱なときには特別に優しい人なんですもの。あたし、あなたのその悲しそうな優しさが好き。――たとえば、あたしがあなたの心を傷つけたときなんかの――あたしがあなたとの口喧嘩を後悔する気になれないのも、一つにはそんな理由からなのよ――でもあなたはとっても気に病んで――そのたんびにああだこうだとちょっとした騒ぎね。そうするとあたしはいつだって、あなたにキスをせがんで喧嘩のこと忘れさせようとして、それはもう大わらわ――。



ここまで真面目な感じで文書いておきながら、急にオトすのもなんですけれどもね。

この本、途中まで読んで一番グッときたのはこれです。僕の好みが分かってしまいますねえ。なんかaikoぽいなあと感じたのは嘘偽りない本音です。

ちなみに、このご夫妻。フィッツジェラルドはその後酒に溺れるようになり、ゼルダは気に病んで療養所に入院。フィッツジェラルドは心臓麻痺で死亡、ゼルダは入院していた療養所が火事になって焼死という悲しい結末です。

どうしてこうもタナトスに訴えかける結末が用意されているのでしょうか。
 
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