2009/07/05

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1.欠勤記

目が覚める、というよりもそのまたもう一歩手前、目が覚めつつあるときに、夢、あるいは夢ではないのかもしれないけれども、眠りの向こう側の世界から持ってきた言葉を頭の中にハッキリと描くことがある。それを頭の中でハッキリと言うこと、それによって目が覚める。その日は最悪で、こう僕の頭のなかでは言葉が発された、「自分は何のために生きているのか」。

僕みたいな人間が会社員になると、バカなもので、この言葉は単に「会社に行くのが辛い」の難しい言い換えなのである。こんなに疲れているのに、なんで会社に行かなければならないんだ、会社のために生きているのか、いやそんなことはないだろう、では、自分は何のために生きているのか。これが難しい言い換えのロジック。

疲れているというのも通り越して、実は体調が悪かった。前々日からずっと腹痛が続き、お腹を下していて、体力を落としていた。良く眠れなかった。ぼんやりと開けた目に飛び込んできたデジタル時計の緑色の光は、5時台を示していた。

その日は、重要な説明会があり、出席するかしないかで今後の仕事の手間が全く変わってしまうものだった。とするならば、無理を押しても出なければならぬ、と考えてしまうのが会社員の性なのか。朝食をとったがすぐに下してしまった。正露丸を飲んで会社にでた。

結局、その重要な説明会では、耐え難い腹痛で途中退席するなど不調があらわになった。しかし、その後すべてを欠席するわけにはいかず、根性を出してその後は説明会に復帰した。頭痛までしてきていた。説明会の終了後は、さすがに残業をせずに帰った。

帰宅して熱を測ると、久々に発熱していた。8度2分という数字を見たとたんに、今まで少しも感じなかった悪寒がしてきた。数字で見せられるというのは怖い。ああ、だめだったんだと感じたとたんに、もうだめになった。

その翌日も重要な仕事があった。先輩と同行して一日中客先の新宿で手伝いがあったのだ。しかし、欠勤することにした。正確に言うと、どうしても勝どきの自室から新宿まで朝じゅうに届けなければいけない資料類があったので、それを届けた後休むことにしたのだった。

新宿で資料類を渡した。先輩は先に到着していた。相当疲れた顔をしていたらしく、心配してくれ、今日はゆっくり休むように言われた。先輩はその後すぐの仕事のために足早に出発して行った。

新宿駅は通勤ラッシュで、自動改札機の列はとめどもない人を吐き出し続けていた。駅に設置されたテレビが、刺激だけのニュースを流していた。東国原さんが入閣しなかった話題。あと、なんだったか、殺人事件かなにかを。

すぐに帰りにつけずに、呆然とそれらを見ていた。ああ、自分は仕事をしていないとだめになる人間なのだと思った。結局30分くらい呆然としてしまっていたと思う。その間ずっと人は絶えなかったし、テレビはずっと同じものを流し続けていた。気分はやさぐれていたが、不思議と頭痛も腹痛もなくなっていた。それで自室に帰った。

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2.「お前がいなくても」と「お前がいないと」 または 成長について

「お前がいなくても、仕事はきっちり運んだから安心しろ」と言われたら、仕事をする人間として安心してはいけない。結局、取替えのきく仕事であったということで、自分が本当に必要とされていたわけではない、ということだからだ。

新人のぺいぺいである僕は、そういうポジションに立たざるをえない。8度2分の熱がでたところですぐ欠席してまったく構わない人間なのだ。ところが、これが先輩だったら、欠席判断の仕方は違っただろう。先輩は僕よりも仕事上必要とされている人だからだ。その程度の熱が出ていても、本当に必要とされていれば押して出席するかもしれない。

そういうところが、悔しかった。僕の場合は、あっさり休むことが出来る。若くて経験がないということが、ハッキリ出るのはこんなところだ。自室にこもりながらこんなことを考えていた。

ただ、ここで考えるのは、「お前がいないと仕事が回らないよ」は、個人にとって見ればプレッシャーではあるけれども、ものすごく良いほめ言葉であるけれども、組織としてみたときには問題だということだ。仕事が属人的になってしまっていることを象徴する言葉だからだ。仕事が属人的になっていると、万一その人に何かがあった場合、組織としても仕事が止まってしまう。また、日常的にも個人の知識が他の人にシェアされていないのも問題だ。

今は「お前がいなくても」である新人は、これから徐々に仕事を覚えて、多かれ少なかれ「お前がいないと」になってくる。おそらく、そのことを個人の「成長」と言うのだと思う。

でも、以上のようなことを考えると、なんだか違和感を感じるのだ。

個人の「成長」とはプレッシャーが重くなって、病気をしていても休みにくくなることなのだろうか?

あるいは、個人の「成長」とは、仕事が属人的になって組織としては危うい方向性にいくことなのだろうか?

さすがに上の論理は詭弁ぽいところもあるけれども、上のは強調しすぎというだけで、多かれ少なかれ組織と個人の間には「成長」をめぐってこういう問題があるのではないかと思う。

組織の「成長」のためには、個人個人が知識を自分の中に溜め込んでいてはいけないと思うし、個人に過度なプレッシャーがかかっているとストレスという面でも問題があるし、万一ということを考えても問題がある。けれども、大概の個人は知識を自分に溜め込もうとするし、「お前がいないと」になることが最初はうれしいはずだ。それで、後々本格的に「お前がいないと」になってプレッシャー過重で危険になる。

もし、個人の「成長」がそういう風に「組織」の成長と相容れないものであるならば、その定義から見直さなければならないような気がするのだ。例えば、多くの知識を自分から「手放して」シェアする人、多くの仕事を「手放して」組織のためにシェアする人、そういう人が優秀な人であり、そういう風になるのが「成長」である、というように。

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