2009/07/08

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演劇評論は何のためにあるか?(1)

評論は何のためにあるか、という問いは、例えば小説は何のためにあるか、とか、映画は何のためにあるか、という問いよりも答えが出やすいようでいて、実は全然答えの見つからぬ問いであるように思われる。小説であるならば、それを読んだ人の楽しみのため、であるとか、何らかの考えを小説という形に乗せて世に送り出すため、だとか、ただの自己満足のため、であるとかいう答えが考え付く。もっとも、「難しい」文学の話になってくると、小説はただ芸術のためのみにある、だとか、一切の「……のため」を削ぎ落として、小説は何のために存在するのでもない(pour rien)という答えもありうるだろう。映画にも、いろいろな「……のため」があるだろうが、映画のほうが立場によって「……のため」が多様化するかもしれない。笑うために、あるいは泣くために映画を観る人も、何らかの芸術的インスピレーションを得るために観る人も、見得で観る人もいるだろう。かたや、自己満足で映画を撮る人、プロパガンダのために映画を撮る人、お金を儲けるために映画を撮る人、いろいろいるだろう。

評論は何のためにあるか。評論には、必ず評論する対象物がある。それを評し、論じるために書かれているから評論と言うのである。であるから、評論とはその対象物のためにあるのだ、という答えが一番簡単なように思われる。しかし、問題はここから始まる。では、一体何のためにその対象をわざわざ論じねばならないのだ? 論ずる必然性など、ないではないか?

あらゆる芸術はそうかもしれないが、芸術と言うのはそれが創られなかったとしてもおそらく世界はほぼ何の差しさわりもなく動いていくという、そういう性質のものだ。その意味で、芸術というものには必然性がない。パンがなくては人は飢えて死んでしまうが、小説や映画がなくても飢えて死ぬことはない。もっとも、そうした文化や芸術は「人が生きていく」ためには必要なものである。しかし、評論はなおさら要らないもののように思われる。なぜ、既に存在している小説や映画とかの「文化」のために、評論はそれをなおさらに書かれねばならないのだろう。それは文化の二番煎じでありながら、偉そうにこの小説は良いだの、この映画はつまらないだなどと言う。なぜそんなものが書かれなければならないかという問いは、それが何のために存在しているのか、という問いに答えを出さねば解けぬものだと思うのだ。

おそらく、世に広まっている評論というものは、暗黙の了解の下にこの点を不問にしている。評論は、消費者のためにある、というのがそれらの答えである。ある本を読もうか読むまいか決める参考のために、あるいは何でもいいからとにかく面白くて自分に向く本を探すために。今度のデートコースに組み込むのに最適な映画を探すために云々。そういった「用途」のために、評論はあると思われる。けれども、これらを総合すると、結局のところ評論は「失敗をしないために」存在しているのではないか、という答えに僕なら至る。

つまらない本を読んでお金と時間を無駄にした気持ちにならないように、だとか、彼女の嫌いなストーリーに当たって、雰囲気が台無しにならないように、という風に。

最近ではブログでもSNSでも簡単に個人が意見を発信できるようになったから、誰でもこの本はおすすめだとか、この映画はつまらないから観る価値なし、とか言うようになった。僕もそういう恩恵を受けて文を公開している。これから論じようとしている演劇の分野でも、「こりっち」だとか「演劇ライフ」というサイトがあって、会員登録をすると誰でも観て来た演劇を星5つとかで評価して、面白かっただとか、期待はずれだっただとか、コメントを残すことが出来るようになっている。大げさに言うと、誰もが気軽に、消費者向けの評論をするようになったのだ。

けれども、消費者が「失敗」をしないために評論が存在しているのだとすれば、少なくとも、僕はそういう評論を書きたくないのだ。すべての文化的な著作物がおすすめとおすすめ出来ない物に振り分けられていったら、芸術の世界も資本主義の論理に呑み込まれてしまうだろうだとか、そういう話ではない。人は、芸術鑑賞において「失敗」すること――本を読んで、あるいは映画を観て、あるいは芝居を観て、心からつまらないと思うこと、ひどいものを読んだ/観たと思うこと、時間とお金を無駄にしたと思うこと――そういった経験を通して、偽りのない自分の価値観に直面すると思うのだ。自分は何を面白いと思うのか。自分は何にだったらお金を払えると思っているのか。何だったら時を忘れて楽しめるのか。そういう風に、「自分にぶちあたる」経験としての「失敗」は、むしろ意味のある機会であると思うのだ。

だから、僕は「失敗をしないための」評論は書きたくないし、書けない。評論が失敗をしないために参考にされるものであるならば、評論とは貧乏くじを引かないためのアンチョコではないか。

評論は消費者のためにある、が答えなのであれば、この時点で僕の考えは誤り。それでよい。ただ、そう言えないのであれば、まだ答えは出ていない。

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