2009/03/26

勝どきというところに住むことにした。勤め始めるにあたっての引越しなのだが、やはり職場に近いからそこにした、という理由以外にも、なにか、土地の匂いというか、雰囲気というか、そういうものを気にしてしまう自分がいるのである。まあ、そういうものを少しばかり衒学的に言ってみるならばゲニウス・ロキということになるのだけれども、これは和訳するならば地霊ということになる。すなわち、土地に住んでいる、というか長い時をかけてその地にしみついている霊的なもの、目に見えない何か、ということだ。街を歩くことが好きな僕にとっては、肌身で感じるその街の雰囲気みたいなものをとても大切なものに思う。雰囲気というか、その街にしみついている物語、というものまで含めて、その街を愛したりするのだ。

そんな僕の勝どき初体験は、なんとも薄い印象だった。だいたい、勝どきに住むんだと言って、あれ、それどこだっけ、と返されることがとても多い。僕も最初は地下鉄路線図を見てやっと分かったのだった。月島の方がもんじゃで有名だから月島の名前を借りて説明すると、そのすぐそばの地域である。

それで、初めて僕が勝どきに行ったときの印象である。今東京で二番目に歴史が浅い地下鉄路線である大江戸線の勝どき駅を降りると、はっきりいって「薄い」としか言えなかった。何にもないわけではないのだが、何かが決定的にないのである。ゲニウス・ロキ的には何も感じない、印象のない街であった。

それもそのはずなのかもしれない。勝どきはそもそも人工島である。埋め立てて出来た土地であって、その成り立ちからして「根ざしている」感じがない。大江戸線の駅で月島と勝どきというのは分けられているが、正確に言うと勝どき駅の周辺も月島地域に含まれている。そして、月島という地名は一説によると「築島」、すなわち「築いた島」の文字を変えたものである。勝どきはそんな月島の2号地と3号地にあたる地域のことなのである。

ただ、印象が薄いなどと文句は言え、引越しするから必要に迫られて周囲を調べる必要があるので、あたりをくまなく歩く。歩くのは大好きだ。スーパーがどことどこにあるか、営業時間はいつまでか、近くの医者は、薬局はどこか。美味そうなレストランはあるか。落ち着けるカフェはあるか。徒歩でどこまでが圏内か。そうやって、趣味と実益を兼ねて勝どき駅のまわりをくまなく歩いていくと、不思議なことに、あれだけ色のなかった土地に、なにか固有の、色というか、香りと言うか、それが見えてくるのだ。

まず、勝どき駅の周りを歩いて気付くのは、地形である。勝どき駅を中心として正確に十字路が引かれている。そして、その中心の交差点から伸びる4本の道はすべて橋につながっている。つまり、四方をすべて川に囲まれた、まさしく「島」なのである。歩き回っていると、自然とその感覚が身体に浸みついてきて、「四角い島」というイメージが湧いてくるのだが、あとでGoogle mapで見てみたら、勝どき駅のある島は見事な正方形であった。


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ここまで正方形だとは思わなかったが、正方形という幾何学的に作られた形がますます「人工物」としての島を際だたせる。

去年、アゴラ劇場で乞局がやっていた芝居、『杭抗(コックリ)』は、平和島を舞台にしていた。平和島もまた埋立地であり、その材料はゴミであったという。物語は、その平和島に建設された戦犯収容所を舞台に展開する。同じ場所を舞台に、戦犯収容所として使われていた時代、闇精子バンクとして使われていた時代、放置自転車収容所として使われていた時代の三つの時代が描かれている。そしてその三つにいずれもかつての戦争の影が落ちているという構造をしていた。戦争の記憶が、時の経過によって薄められながらも、やはり薄暗い地下の部屋という「場所」の中に埃のように積もっていることを感じさせる、きわめてゲニウス・ロキ的な演劇であった。そして、そんな戦争を感じさせる土地につけられた地名が「平和」であったことが皮肉でしかないことをまた、劇は主張していたのだった。

話を勝どきに戻す。するとなると、勝どきもなにか戦争に関連がありそうではないか。だいたい、この「勝どき」という印象的な地名、なにか考えさせるではないか。勝ち鬨というのは、もともと戦いに際してあげる掛け声のことである。あの、エイエイオーという掛け声が勝ち鬨である。勝利を収めたとき、あるいは出陣のときに掛け声をあげていたらしい。もっとも、最近は運動会でもエイエイオーなんて言わないから、よくラストサムライとか、何かしら戦いがある映画の中で、軍隊が敵に向かって走っていくときに挙げるウォーという声が勝ち鬨だと誤解されている感じもある。とにかく、「勝ち鬨」という言葉自体は戦いに関連があるし、誤解だったとしても、この言葉は戦いをイメージさせるものには変わりない。

調べてみると、「勝鬨」もまた戦争と色濃い関係がある土地だと分かった。日露戦争、日中戦争という二つの戦争が「勝鬨」という名前をこの地に与えたのだった。

1905年 日露戦争の旅順陥落を記念して、「勝鬨の碑」が建設される。同時に、その河岸(隅田川)に「勝鬨の渡し」が開かれる。「勝鬨の渡し」によって、築地と人工島である月島が結ばれた。

1933年 勝鬨橋着工。橋建設の目的は、1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス路(実際には博覧会は開催されなかった)。日本の技術力を誇示できる橋にするため、外国から技術者を導入せず、日本人のみで設計・施工を行った。大型船舶が通る際、橋の両端が吊上がって橋を開ける跳ね橋として設計される。

1937年7月7日 盧溝橋事件。日中戦争(支那事変)勃発。

1940年6月14日 勝鬨橋竣工。日本軍の勝利の願いを込めて勝鬨橋と命名される。橋を跳ね上げる様子がバンザイに見えることからもこう命名された。

そして勝鬨橋のふもとにあたる月島2号地・3号地は、勝鬨橋から名前をとって勝鬨と呼ばれるようになったのだった。

ここまで調べると勝鬨という地名が、ナショナルなものを引き継いでいることが分かる。ただ、ここまでの漢字表記でもたびたび変わっているように、「勝鬨」はいつしか「勝どき」となった。これは常用漢字外である「鬨」をひらがなにしてしまったからだが、こうすると、地名はいささか角が取れてやわらかいイメージになる。その分あの「戦争の記憶」も薄められるのだろう。

ここまで調べていくと、もはや勝どきにゲニウス・ロキを感じない、などとは僕には言えない。歩き、そして調べれば、その地にはその地の歴史があることがわかるのだ。もはや、勝どきが戦争と関係のある地名だ、などと今更調べて考える人間はあんまりいないだろうし、むしろベイサイドで高級マンションが立ち並ぶ、豊洲にも近いちょっとセレブな感じ、というようなのを思い浮かべる人のほうが多いのかもしれない(僕が住むのはセレブな部屋じゃないけど)。

だが、勝鬨橋の歩道の上で見られる、今はもう動いていない信号灯を見ると、かつてこれが橋の上を整理していたこと、橋の上から往来を排除して橋を吊り上げていたこと、そこを船舶が通るのが、戦争が激化するのが、僕の中には呼び起こされるのである。

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