2009/03/04

汝の敵を愛しなさい、とイエス・キリストは言いました。しかし、私が少し当惑せざるを得ないのが、この言葉が「敵」というものの存在を前提にしていることです。この世には敵も味方もないのだ、という言い方をキリストはしませんでした。もとい、最終的にキリストが言いたかったのはそういうことなのでしょう。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書5:45)のです。神の愛はすべての人に等しく注がれ、神の愛のもとでは敵も味方もないのです。しかし、ここでキリストは敵という言葉を使いました。このことは、敵なんていない、みんな仲良しだという、おそらく残念ながらこの世では実現しそうにしそうもない夢想的な、ユートピア的な平和主義に逃げ込めぬよう、私にくさびを打っているように思われるのです。心を素直にして、目を見開いて、現実を見てみましょう。私には敵などいない、などということはできません。私には嫌いな人も信頼していない人も憎んでいる人もいます。私には敵がいて、このことは認めざるを得ないことです。そして、これは私のみならず、ごく普通の人間ならば誰しもがそうなのではないでしょうか。

つまり、ここで言われている「愛する」ということの順番は、「この世には敵も何もなく、みんな仲間だ。だから愛する」というのではなく、「この世には敵がいる。それでも愛する」である、と私には思われるのです。本当に、純粋な意味ですべてを愛することができるのは、神のみであるように思われます。もしすべてを隔たりなく愛していると表明するならば、むしろそれが嘘になってしまうような私のようなちっぽけな人間には、嫌いなものは嫌い、敵は敵である、と認めたうえで、それでも愛そう、とするのが最大限の誠意であり、またそれが人間の領分であるように思うのです。

現に敵は目の前にいるし、それを否定することがむしろ嘘になってしまうようなこの現実においては、だから、「それでも愛する」という態度が非常に大きな課題であると思います。というよりも、「愛する」ということの本質とは、「それでも愛する」なのではないかと私は考えます。「だから愛する」という愛し方には、限定が含まれています。愛するが故の原因になったものが失われてしまえば、愛せなくなってしまうからです。「それでも愛する」は、そうした限定を超えた愛です。神ならば、「それでも」などという譲歩をつけずして愛することができるのでしょうが、不完全である人間にとっては、「敵」というものを認めたうえで、「それでも愛する」ということが最も「愛する」ということの核心に迫る態度なのではないでしょうか。

すると、おのずから「愛する」ということの恐ろしいほどの深さがわかります。その深さは、無限大です。「それでも愛する」愛は、無限に更新されていく愛だからです。どんなに敵から傷つけられようが、どれだけ敵のことを憎いと思おうが、それでも愛するのが愛です。私はこのことを悟ったとき、その難しさに途方に暮れて涙をこらえることができませんでした。正直に告白をいたしますと、私には憎いと思っている人がいて、どれだけ言葉の綾をつかって和らげようとしても、結局自分の心に聞いたところ、憎いと思っている、としか言いようのないほど、私はその人を憎んだのです。それでも愛さなくてはなりません。否、愛とはそんなお題目ではありません。私の心は、憎む、それと同時に、熱心に愛することも求めていたのです。ただ、目下私の中に沸きあがってくる憎みの思いの前に、何度「それでも」を唱えればよいのでしょうか? 私はその果てしのない困難を悟ったのでした。

愛とは、あきらめないことであり、見捨てないことなのだと思います。愛する、という心のはたらきを、どんな目にあっても止めないで続けること、もう愛せないとあきらめてしまわないこと、それが愛なのではないでしょうか。

私は、愛するために、あなたを私の敵ではない、と言うことはできません。それは嘘になってしまいます。私とあなたとは敵同士ではない、同じなんだ、と言うことは、友好を示しているようで、実はお互いの「違い」を無視し、黙殺することです。「違い」の存在を闇の中に葬って、なかったことにする態度です。それは、「違い」を認めて愛するための闘いを放棄することです。私は、愛するために、あなたを私の敵として、私とは違う考えをもつ「敵」として、対峙しなくてはならないのです。たとえあなたと私の「違い」が、恐ろしく深く断絶した谷のようであっても、世界ごとがゆがんでいるような絶望の闇であっても、そこに橋をかける試みを、止めてはならないのです。

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