2009/02/16

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わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

村上春樹氏がイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞したことが報道されている。一報を知ったのはテレビだったが、この独特の「壁」と「卵」の例えにフォーカスされていて、「壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」の部分は編集でカットされていた。「わたしは常に卵の側に立つ」だけでも感動するのだけれど、別の番組でその後の部分も編集でカットせずに流しているものを見て、なおさら感動してしまった。

「壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」

この発言に超絶賛同。

僕にとっては「壁」や「卵」が何を暗示しているのか、ということよりも、この発言、つまり小説家の価値、というところに興味がある。「壁」を前にした小説家は何をするべきなのだろうか? 仮にも僕だって一度は小説家を志したことはあるし、今は演劇評論をやりたいと思っている。演劇評論とも関わりなくこのブログで文を書いている。つまり、なんらか僕は文というものをつかって世の中に「発信」したい気持ちが強いのだけれど、自分は「発信」する人間として、「言論人」として、何をするべきか、ということを近々とても意識するようになった。

少なくとも僕は「発信」する人間として、批判精神を失ったらお終いだと思って書いている。はしっくれであったとしても「言論人」という気概をもっていたいし、「言論人」とは批判精神を持っていてこそそういえると思うのだ。村上氏の例えに乗っかって言うならば、壁を批判する側に常に立つのが物書きというものだと思う。

なんというか、うまく今は表せないのでこの辺にしておくことにする。けれど、ずっと僕が考えていくテーマだろうなあ、これは。

このエントリのBGMは、ショスタコーヴィチが表向きは思いっきりソビエト社会主義体制に迎合して書いた、という交響曲第五番です。

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