2009/02/10

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 君たち、最高の賢者たちよ。君たちは、君たちをおし進め、熱中させているものを、「真理への意志」と呼んでいるのか。
 いっさいの存在者を思考しうるものにしようとする意志、わたしは君たちの意志をそう呼ぶ。
 いっさいの存在者を君たちはまず、思考しうるものにしようとする。君たちは、それぞれの存在者が思考しうるものであるかを、真率な不信の念をもって疑う。
 だが、君たちの意志が欲することは、いっさいの存在者が君たちに適応し、服従するということだ。それは扱いやすくなり、精神に臣従しなければならぬ、精神の鏡として、映像として。そのことを君たちは望むのだ。
 最高の賢者たちよ。それが君たちの意志の全貌だ。つまりそれは、力への意志の一種なのだ。君たちが善と悪、また種々の価値について語るときも、そうなのだ。
 君たちは、君たちがひざまずいて礼拝するに足る世界を、君たちの精神によって創造しようとしている。それが君たちの究極の希望であり、陶酔なのだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』(『世界の名著〈第46〉 』)p187-188
ここで言う賢者というのは、哲学者や思想家のことを指している。つまり彼ら賢者がやる事というのは哲学であり、思想である。哲学とか思想とかいうものが目指すのは「考えること」によって世界を解き明かすこと、「真理」を求めていくことであるように思われるが、それはすなわち、ありとあらゆることを自分の理解が可能な範疇に置きたいという欲望である。つまりもともと哲学というものは、世界をすみずみまで理解したい、この世に起こるものをすべて理解しつくして、理解できていないエリアを残したくない、という志向をもっているのだ。ここでニーチェは、そういう哲学の「意志」というか野望を喝破している。引用の最後の文なんかはすごい。哲学が最終的には世界を理解しつくし、哲学によって世界を再構成する野望を「陶酔」とまで言っている。

僕は結局食わず嫌いでデリダを読んでいないし、デリダとニーチェの関連なんかも分からないが、まだ藤本先生が『Marges - de la philosophie』(邦題:『哲学の余白』)の翻訳を進めていた頃、講義でこのタイトルについても触れていて、これに関連することを言っていた。つまり哲学と言うのは「余白」を作らないよう作らないよう志向するもののはずなのに、デリダは彼の本のタイトルに「余白」とつけてしまった。このタイトルからもデリダの哲学に対する考え方が、「脱構築」が読み取られる、と。

とはいえ、僕は自分が「哲学者」であり「思想家」でしかありえないように思うし、ニーチェがここで言うような「賢者」でありたいと思う気持ちを抑えられないのだ。「哲学者」というのは何も大学教授で哲学についての本を書いている、という意味ではない。僕はどんなに小さくても、自分のアタマで世界や社会と対峙し始めたら、それだけでもう「考える」ということの最前線にいると思っているし、その意味で既に「哲学者」だと思う。僕が学問を面白いと思うのは、アタマ一つで世界と対峙できるからだ。もうそれだけで「考える」というフィールドにおいては最前線に立てるからだ。僕と似たことを考える人はいるかもしれないが、同じ事を考える人は二人としていないわけで、その意味で僕が考えていることは「思想界」では唯一無二だからだ。このブログにある「哲学」カテゴリも必ずしもデリダとかハイデガーとかアリストテレスとか、「いわゆる哲学」をネタにしているとは限らない。ただただ気難しい本を読みこなして満足する態度とか、もう石像になっているような人について研究して教えを乞うような態度は、「哲学」じゃないと思うのだ。哲学とは、そんな受身なものではないと思う。もっと積極的に、自分の身一つ、もといアタマ一つだけで世界に乗り出していくこと、アタマ一つで世界と対峙すること、それが哲学なのだと思う。ブログの「哲学」カテゴリもそういう僕の考え方に基づいている。

物心ついてから、僕はずっと考え続けてきた。自分の存在意義から始まって、世界について、社会について、ふつつかでも自分のアタマを使って向き合ってきた。そういう態度は「哲学」に他ならなかったし、そうして「考える」ことが僕を確立させたのだった。僕は常に考えることをやめず、また考えるために本もたくさん読んできた。知的好奇心とはそういうものだと思うのだ。今更ながらに自分のアイデンティティみたいなものを最近少し考えたのだけれど、結局僕のアイデンティティとはこの知的好奇心だと思うのだ。「知りたい」欲望と「考えたい」欲望が僕を僕にした。逆に、知的好奇心=欲望を失ったら僕はもうお終いだと思う。

"To know is to conquer."という言葉をどこで目にしたのかは忘れてしまった。「知ることとは征服することである」というこの言葉は、しかし、一度聞いたら僕のアタマにこびりついて離れなかった。どこまでも「知りたい」僕は、どこまでも「征服したい」人間だということになる。知るということは暴力性を持っている、ということは前からなんとなく分かっていた。ニーチェはこの言葉を僕に思い出させたのだった。そして、またしても自分が暴力を振るうことを避けられないからこその責任、ということを考えさせたのだった。

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