2009/01/02

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世の中がミレニアムということで特別めでたいのだと、その一方でコンピュータが一斉に誤作動をするんじゃないか、そうしたら世の中はどうなってしまうんだと、そんなような異様な雰囲気に包まれながら迎えた西暦2000年。思えば、あの頃が一番僕にとって新年を迎えることにドキドキを覚えていた気がする。あの頃僕は13歳、ちょっと早いが完全なる中二病患者であった僕は、ぼんやりとノストラダムスの予言を思い描きながら、ああ、ついに世界は崩壊せずに1999年が過ぎ去ろうとしている、けれども2000年問題でどうなるものかはしれないな、などという今となっては馬鹿げた黙示録的な考えをめぐらせていた。

一人でテレビを見ながら2000年を迎えた。うるさい感じの番組だったから「行く年来る年」ではなかった。どこのチャンネルでも派手にカウントダウンをやっていた。そうなると僕は11時57分くらいからしきりにチャンネルを回して、どこのチャンネルで新年を迎えるか、どこがマシか、ということを探るような奴だったのだけれども、結局1分前くらいになるとチャンネルも落ち着き、どこかの生中継会場とともに僕はドキドキするのだった。10、9、8、7、ベタに2000年という節目に生きていることについてドキドキしながら、このカウントダウンが終わったとき、2000年問題が頭をもたげて、一気に電気が消えてしまうんじゃないかしら、社会は大混乱に陥るんじゃないかしら、世の中が全部麻痺して死ぬんじゃないかしらと不穏にも考えながらそれを見ていた。

2000年になった。結局何も起こらなかった。2000年はまったくおめでたく迎えられたのだった。コンピュータはたいした誤作動を起こさなかったし、社会は崩壊しなかったし、僕は死ななかった。テレビの中では花火が打ち上げられてめでたい雰囲気に包まれていた。Youtubeも、9・11もなかった頃の話だ。まったく、おめでたい新年だった。

何を話したいかと言うと「めでたい」ということについてで、新年を迎えるにあたって考えたからだ。新年あけまして、おめでとうございます。世間はこれから2日間か3日間かはこれ一色になる。では、一体何がおめでたいのだろう。

2000年ももう遠く過ぎ去り、時代はどんどん早くなった。飛行機もツインタワーに落ちたし、インターネットも君臨した。僕もただの中二ではなくなった。そして年越しが、クリスマスにサンタさんが来るかどうかが楽しみじゃなくなるのと同じように、どんどんとつまらない、むしろ面倒くさいものになっていった。僕は家で一人で年越しの瞬間を迎えるのが2000年頃からの習慣だったが、自室で一人でいると、「おめでとう」などというテレビの甲高い声がむしろいらつくだけだし、大して会いもしない人からの「あけおめ」メールなんかも面倒くさいだけだったりになっていった。一人で腐った気持ちになりながらテレビを見ながら年を越したりするのなんかはまったく最悪だ。ああ、思い出したくもないけれども、一番腐った年越しは「絶対に笑ってはいけないなんとやら」を見ながらいつの間にか年を越したときだった。まったく暴力的なだけのテレビ番組だったが、馬鹿馬鹿しいと思いながらも見てしまったあたりが実に腐っていた。まあ自分がこういう年越しを過ごしてしまった経験があるし、もうそんな年越しをしたくないから書くのだけれども、そんな新年はめでたくともなんともない。

じゃあ、めでたいってどういうことなのだろう。お正月はめでたいことに相場がなっているけれど、めでたくない人もいるわけで、むしろそんな人にとっては「めでたいめでたい」と世の中が騒げば騒ぐほど腐った気持ちになるのだ。世の中は、そういう腐った気持ちになっている人にとって残酷なように出来上がっているのだ。「めでたい」日の「めでたい」雰囲気は、人を「めでたい」気持ちになっていないといけないような緊張に追い込むのだ。

結局、「めでたい」という言葉のもつこの圧力を取り払うためには、「めでたい」という修飾語が何にかかるかを自分の中で変えなければならない。普通は、「めでたい」という修飾語は「お正月が」めでたいとか、「クリスマスが」めでたいとか、そういう外的なコトに掛かるものだけれども、こう考えると辛くなってくるのだ。めでたいものであるはずのお正月に何を腐っているんだろう、俺は、という感じに。もうちょっと、「めでたい」という言葉を、ミニマムな、小さな次元に、人の心の中の次元に、もっていけないだろうか? 「めでたい」の対象は、そんな外的な「コト」ではなくて、もっと内的なものに考えることはできないだろうか? 少なくとも、もっと「めでたい」という言葉の修飾する方向を、「コト」から少しずらせないだろうか?

「めでたい」っていうのは、「お正月だから」めでたいのでもなんでもなく、「お正月」という、その記念すべき「時」を、人と共有するからめでたいんだと思う。新年のカウントダウンだったら、人とドキドキしながらその「時」を迎えるということが楽しいんだし、そうして迎えた「時」だからおめでたいんだと思う。逆に言うと、人と共有しない「時」なんて、おめでたくなんかないのだ。スタンドアローンな「めでたさ」なんてありえない。僕が腐った気持ちになりながら過ごしたかつての年末年始は全然おめでたくないのは、そこに「時」を共有する人がいなかったからだ。

お正月がめでたいのは、「お正月」という記念すべき「時」を、<あなた>と共有できたから、めでたいのだ。お正月という「コト」を、<あなた>と共有できるから、めでたいのだ。お正月は、お正月だからめでたいのではなく、それを記念として、<あなた>とそれを共有できるから、<あなた>と関係できるからめでたいのだ。別の言い方をして、その関係性自体がめでたいのだ、とすれば、「めでたい」は、コミュニケーションとか人と人とのつながりあいの問題になってくる。

多分昔は、お正月「が」おめでたいこと、それでよかったのだろう。お正月自体がめでたいことことになっていて、それを口実として自然に家族、隣近所、友人同士といった共同体のコミュニケーションが促進されたのだと思う。ところが、そんな共同体のコミュニケーションが瀕死になっているか、複雑怪奇になっている現代では、むしろお正月自体がめでたいことになっているのは人にプレッシャーをかける。いや、俺はめでたくないし、祝いたくもないから、という人を置き去りにして、勢いで社会の中にムードを作って突っ走るのが現代のお正月と言えるだろう。

いや、お正月が罪悪だなどというつもりはさらさらないのです。社会がそんなになってしまっていることを嘆くわけでもありません。そうなってしまっているのはしょうがないとして受け止めて、「お正月は他者との「時」の共有ができるからこそおめでたいのだ」という仮定に立った方が、「お正月はお正月だからおめでたいのだ」という定義に立つよりも良いと思いませんか、ということを言いたかったのです。

以上が言いたかったことですが、ちなみに僕の2008-2009年の年越しはまさに上に書いたような意味で充実したものにすることができました。年越しを過ごす場所としてやっと自室を抜け出し、2008年、ここで相当な時間を過ごしたこまばアゴラ劇場にて、東京デスロックの年越しバージョン「その人を知らず」を観ながら新年を迎えました。終演後始まった新年会にて、デスロックに文を書いて以来やっと多田淳之介さんとも少しは話す機会を得られたし、新しい人との出会いもあったり、その出会ったばかりの人たちでノリで近くの神社まで初詣になだれ込んだりの楽しい年越しでした。演劇を観始めてから「時」を共有する、みたいなことについて考えをめぐらせることが多くて、というのはまさに演劇とは「時」を大人数で共有する体験に他ならないからなのですが、そんなこんなな考えが上の文を僕に書かせるに至りましたとさ。

それでは、お正月が「自ずから」おめでたいものではないことを確認したので「あけましておめでとう」とは言わずに...「あけましておめでたいものにしましょう」。

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