2008/12/23

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実は前のエントリでも書いたことですが、僕は性格的にいわゆる血気盛んな起業家タイプではありません。「大学在学中に、起業しました」なんてこともないし、「就職しても5年以内に絶対に独立してやります」なんて発想もしません。明らかに偏見の入った言い方ですが、僕が回った人材業界、特にベンチャーには、顔が真っ赤で(血行がいい)、火を吹きそうな人がたくさんいます。僕はむしろ血行がよくないです。僕の人間としての一番奥底にあるのは、やっぱり文学・哲学なんだと最近しみじみ思います。熱さで乗り切る行動派というよりは、冷徹な思考、懐疑心、批判精神を一番ベースにします。人間を疑うし、成功を疑います。なにより自分自身を疑います。そういう人間がリーダーをやるのだから、この企画の熱を保ってやっていけるのかどうか心配になり、僕で役が足りるのかということも悩んだこともありました。もちろん、引き受けた以上は、役割として「熱さ」を演じることもあります。しかし、それは演じているに過ぎません。リーダーシップは、素でできてなんぼのものだと思います。結局、メッキがはがれてもリーダーとしてどうしようもないものだ、という結論に達して、素の自分を隠さないリーダーシップを追うことにしました。

なので、僕のリーダーシップ論はあまり爽快なものではないと思います。なるべくこのNoteではハウツー的に書きましたが、根底を流れる思想はあまり気分爽快なものではありません。世に溢れるほとんどのリーダーシップ論はおそらく言わないことだと思いますが、「ネクラ」な文学も哲学もかじった僕は、リーダーシップとは暴力である、なんて言い方も辞しません。なぜ暴力か。本文にも書きましたが、リーダーとは自分の「欲望」のために、ああだこうだと理由をつけて他の人の時間=人生の一部を奪う人間だからです。いや、企画に参加するにあたっては、やってみたいという「同意」があるのだから「暴力」にはあたらない、という反論があると思います。その「同意」すら、リーダーである僕が企画を面白そうに語って取り付けた同意です。少なくとも、そう疑う必要はあります。「協力」とか「チームワーク」とかいう人間味のない、冷たい考え方だという反論もあるでしょう。「協力」とか「チームワーク」が人間の素晴らしいコミュニケーションの関係であることは認めても、リーダーはこの言葉を濫用してはなりません。この言葉のもとに覆い隠された人間性の圧殺を常に念頭に置くべきです。その最たるかたちはファシズムです。恐ろしいことに、それは皆が「同意」したリーダーシップだったのです。「協力」とか「チームワーク」という言葉が美しいときも、リーダーが個々人の時間を掠め取っている可能性を疑うことはできます。

会社と言う世界の中では、上司というかたちで「同意」に関係がなくリーダーが決まることもあるでしょう。平社員であるうちは、上司を選ぶことなんてできません。一方的、暴力的にリーダーは決まり、その人間が他の人間の時間を使います。僕は、自分自身が将来誰かの上に立つ人間になることも念頭において、このことから逃げたくない。世に溢れるリーダーシップ論がどんなにリーダーの明るく、他者にも良い影響を与える側面を描いていても、リーダーが他者の時間を暴力的に拝借するものだということから目を逸らしたくないのです。

僕はリーダーシップを否定し、「直接民主主義」を推奨しているわけではありません。今回の様な、何か特定の目的をもった企画を動かすことにおいて、「直接民主主義」は無秩序になるだけだと思いますし、それは自分がやってみてもそう感じました。本文においても、リーダーは積極的にアイデアをだし、会議をリードするべきと書きました。企画においてリードする人間=リーダーは不可欠だと思います。そして、そのリーダーが暴力的な側面を否定できないのです。とするならば、リーダーというものがメンバーに対して最大限に配慮できるのは、暴力を暴力として表面に現さないことなのではないでしょうか。暴力であることを押し隠すということではありません。時間を奪うという暴力を振るっているからこそ、それに見合うだけの埋め合わせをするということが、リーダーとしての最大限の「思いやり」なのではないでしょうか?

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