2008/12/30

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もうちょっと前になってしまったけれども、青☆組の公演、「雨と猫といくつかの嘘」を観にいった。青☆組の公演は2回目だ。脚本・演出家の吉田小夏さんはとても可愛らしい女性で、開演前の客席誘導を自分でやっている。しかもとてもマメだ。演出家が自分で客席誘導をやるところはあんまりないと思うのだが……。僕は前回公演のアフタートークでお顔を知っているので分かるのだが、たぶんはじめての人は言われるまで脚本家だとは気がつかないんじゃないか。僕は最初は分からなかった。それともわざわざ自分でやるのは何か理由があるのかな、と思う。

内容は、素晴らしかった。僕はひねくれ者なところがあるから、「家族ドラマ」的なもの、「ヒューマンドラマ」的なものは、どこかで苦手意識を持っているのだけれども、「雨と猫といくつかの嘘」はそれを越えて感動するものがあった。感動といっても、安っぽい「お涙頂戴」ではない。人間が生きていくこと、生活をしていくことに注がれる真摯な、雨だれのような優しく、しかし容赦なく降り注ぎ続ける眼差しがあった。それが演劇という枠を使って表現されていることに感動した。ちゃんとした劇評が書きたくて2回観にいったのだが、いまだ僕の筆は間に合っていない。

ところで、演劇には結構、公演のあとアフタートークを設けてくれるところも多い。多くは演出家と役者、もしくは演出家とゲストが対談する。そのあと、「じゃあ、そろそろ……」という感じで客席からの意見や質問タイムがある。青☆組のこの公演でもアフタートークがあって、僕は一年ちょっと演劇を観続けてやっとそろそろ真っ先に手を上げるくらいの意欲は出てきたのだが、しかし自分がした質問の陳腐さにはやや呆れた(まあ大体質問というのは一発目は出ないのが世の中というものです。そんな中でたとえバカっぽいものであれ先陣を切るというのはそれだけの価値はあるとは思うのだけれども)。僕の質問は、「劇中、同じ台詞や同じシーンが繰り返されるのが印象的でしたが、脚本としての意図はあるのでしょうか」というものだった。実は、もし劇評を書くならばここを一つのポイントとして書きたいと思う切り口だったからこの質問をしたのだが、あとになって考えた。

意味を求めることって妥当なことなんだろうか。

前の演劇論ノート#1で書いたことだけれども、僕は観劇というのは「体験」だと思っている。体験である以上、ある人にはある人の、別の人には別の体験として映っていいものだ。むしろ、観客がある同じ劇を観て、誰もが「同じ」体験をするように仕向けられているものは僕は面白くないと思うし、極論を言ってしまうとそれは暴力ですらある。僕が大方の商業主義映画が好きじゃない理由はこれで、100%の「お涙頂戴」ものが嫌いな理由でもある(蛇足:チャンネルを回したときにTVに映った水戸黄門を「見てしまう」理由でもある)。

要するに言いたいのは、「同じ」体験に皆が収斂されていくような環境とは、思考停止だということだ。そのような「体験」とは、画一化された、あらかじめ用意されたような「体験」を追体験しているに過ぎない。とりあえずは、こういうものに対してはこう反応すればOK、という規範があるのだからとても楽だ。考えることなく、記号的に、――かの言葉を使うとすれば動物的に、ただ消費すればいいのだから。危険なのは、その用意されたものに対して無批判になることだ。思考停止を促すようなものは、暴力だ、ということのくだりはこれくらいにして、でも単純に僕が思うのはこういうことだ。すなわち、これを観たらこういう風に思ってくださいね、というものを観て、その通りに思って、何が面白いんだろう?

話がずれた気もするけれど、脚本家に対して、劇のことについて「何か意図があるのか」と訊ねることの阿呆さもここにあるのだ。脚本家は、なんらかの回答をする。すると、それが「オーソライズド」された答えになってしまうのだ。オーソライズドされた演劇の観方、なんて絶対に面白くない。個々が勝手に、自由に、演劇を観ていい。このことをテクスト(文章)について言ったのがロラン・バルトだったけれども、演劇だって同じだ。とりわけ、演劇はテクストと違って「目の前で起こること」を「大人数で観ること」だから、観る人の「体験」は画一の方向に流れやすいんだと思う。政治家というのはたびたびこの効果を使う。かつて「劇場」といわれたあの日本の政治を思い出そう。この語法は「演劇」からしたらまったくけしからん用法だったと思う。「演劇」というのはやりようによってはそれだけ画一的な「体験」を呼び起こすものにもなりうるということだ。だからこそ、テクスト以上に、観劇というものにおける「体験」の多様性というのは強調されなければいけないのだと思う。脚本家が何かの意図を込めたと表明しても、それがオーソライズドされているんだ、という発想から自由であるべきだし、――ああ、「べきだ」論はつまらない。本当の、本物の、僕の本音を言うと、自由である方が断然楽しい。

「雨と猫といくつかの嘘」の終演後、席を立つ客の会話から、泣けたか、泣けなかったかみたいなことも聞こえてきた。観方によっては、この劇はいわゆる「泣けるモノ」として観ることも可能だった。観方は自由だ。だから、彼らがどんなことを言っても自由だ。でもまあ、僕はこの劇を「泣けるモノ」として観ていないから(というか観たくないから)、思わずちょっとけしからん、と言いたくなってしまうのだけれども。

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