2008/07/02

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地上に、あまりにも夥しい悲嘆や窮迫や醜悪やが存在しているので、幸福な人間は、自分の幸福を恥ぢずには思ひをそこに致しかねるありさまだ。それだのに他方、自ら幸福であり得ない者は、他人の幸福に何をする力も無い。僕は自分の中にやむにやまれない幸福であるべき義務を感じる。

僕には自分の周囲に幸福を広める最上にして且つ最確実な方法は、先ず自ら親しく身を以って幸福の姿を示すにあると気がついた。そこで僕は幸福にならうと決心した。


アンドレ・ジイド『新しき糧』

ここ数週間で、すさまじい勢いで中二に戻りつつある幸せを享受している。自分の中に文学が戻ってきた感じがしている。大学を通して、一通りメディア論だとか気張った思想だとかを学んだことが一巡してきたのだろう。幼い頃に考えていた文学的なるもの、哲学的なるものを頭の中に云々する思考回路に再び通電し始めた。なんという幸せな疲労感! 折りしも中島義道『不幸論』を読んで、僕の中二病の病原とも言えるアンドレ・ジイドのすばらしい引用があってから、ジイドを再読しようとしていたときであった。早稲田の激安古本屋で全12巻中、最終巻の12巻だけが落ちたジイド全集11冊を、たったの300円で手に入れた(この本屋は神がかり的としか言いようの無い安さである)。昭和9年に印刷されたというこれらの本のアウラも僕には懐かしい。まったく、卒論のテーマをジイドに変更したいくらいだ。

さて、中二病についていつか書きたいと思っているのだけど、今回は先の引用がまったく僕の中二のころに考えていた思考回路と同じであることについて。

僕は自分の不幸を嘆いていた。僕が存在していることは周りを不幸にしているのではないか。自分が他者を幸福に出来ないことについて、僕は悲しくてたまらなかった。僕の周りには悲しそうな人が沢山いた。そして、僕は別段そうした人を笑顔にできる存在ではなかった。むしろ、不幸を増徴するような存在だと信じた。そんな存在は消えてしまったほうがいいと考えていた。しかし、まぎれもなく今僕は生きているのであって、次の瞬間に消えてしまうことなど出来ないのであった。僕は不幸の病原体を撒き散らして、周りをも不幸にしているのかもしれないのに、平気な顔をして屠殺された動物を食べていた。家畜は幸せではなかったか。不幸であった可能性はあるが、少なくとも殺された。殺されて、不幸な人間が口にして、ああ、こうして食って生きて不幸を長引かせている、味わっている、俺は不幸だ、と考えている。それはあまりに無礼で不謹慎ではないか。動物に限らない。僕の存在は他人の幸せを常に屠殺しているのかもしれないと考えていた。世界中で飢餓に苦しむ人々の存在を知っていて、僕は食べ物を残す。戦場にたつ子供たちを知っていて、僕は勉強をかったるがっていた。母の献身をコケにした。先生をコケにした。クラスメイトをコケにした。自分は生きている限り他者の幸せを消費することだけは避けられない存在であることを痛感した。

ここから、「ゆえに私は無用の人間である、他者の幸せを搾取しながらも自分の幸せを実現できない無用の人間である」という結論に持ってゆくところを、「ゆえに僕は幸せにならない限り他者の幸せの犠牲に応える事ができない、自分も他者の犠牲に出来るくらいの幸せをもたないと恩返しができない、生きのびている限りにおいては、それが義務と言うものだ」という思考にもっていくことが、僕の心のリハビリテーションの流れであった。僕は自分が幸せになる必要性をまさに感じたのであった。

中島義道氏はまさにこの引用箇所について、自分の幸福ありきで、そこに向けて全てを正当化する論理の杜撰さとずるさを批判している。まったく、批判はその通りである。僕はあれから自分の幸せのためにもまた、他者の幸せを搾取してきたのだから。自分の幸せと他者の幸せが相容れないと判断した場合、僕は自分の幸せを取るようにしてきた。そしてそれに極力罪悪感をもたないように自分を麻痺させてきた。「やさしさ」は、僕がマキャベリストになることを許しはしない。けれども、僕はあのときよりは幸せになった。こうして自分の思考の堂々めぐりの迷宮をお見せできる、そして苦笑をもって語れるくらいの不幸のサイズに、加工できたのだから。不幸を語ることが出来るとは、まったく幸せに他ならないのである。僕は先の引用を地で行き、少なくとも(幸せにするか不幸せにするかは判断しないとして)「影響力のある」人になった。きっと、今までよりも人を幸せに出来、かつ人をもっと不幸にしてきた。これからも、僕はこの論理の欺瞞に気づきながら、それでも生きていくために、自分を幸せにしたいと思う。その過程で、人が幸せになってくれるならばうれしい。僕の小さな幸せは、矛盾に満ちた堂々巡りの不幸をこうしてこねくり回すことが出来ることにあるのだから、こういう種類の幸せを共有できる人は、少ないかもしれないけれど。

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