2008/06/05

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(半分は皮肉です。念のため。)

いかに人がもめているときであっても、最終的に解決に進むべき方向性とは「真理」であって、それに近づく手段は「論理」である、と僕は子供ながらに考えていた。むろんそこには子供なりの狡さがあって、「真理」を語れるならば「勝利」できることはわかっていた。僕は弱かった。論理とは弱者であっても平等に手にできる武器だと思っていた。

僕は論理的思考をほめられる事が多い。それ自体はとてもうれしいことだし、自分の強みとして認識していいし、売りに出していいのだと思う。僕は子供のころから鍛えてきたのだ。

生まれて21年間、埃と有害物質を吸ってきた口から言う。論理が弱者であっても平等に手にできる武器だと思ったら、それは大間違いだ。

「議論」を勝ちか負けかで決めるものであるとするならば、論理とは強者が使うとき強力な武器になる。弱者であっても使えるし、時には強者よりも堅固なロジックを組むことはできる。が、それが強者をも打ち負かす武器になることはない。場合によっては弱者の組んだロジックがしっかりしていればしているほど強者からは煙たがられるか、あるいはボコボコにされるかである。「勝つ」か「負ける」かは実は事前にほぼ決まっていると言ってよく、それはただ議論のスタート時点で強者か弱者かだけで決まる。論理とは、冒頭に述べたように、これが強者か弱者かに関わらず「真理」への手段であると受け取られているのならば、このことを隠蔽するためにある。「真理」とはもちろん方便であって、あるとは到底思えないし、それをうすうす感じてはいるのだけれど、とりあえずそういう言葉もあることだしあることに仮定して、実際にあるものを逆に覆い隠すコトバである。

僕はこのことを悟るために物心ついてから論理的思考を磨いてきたかと思うと全く笑えてくる。今は僕の論理的思考をお褒めに預かると、まったく自分もまだまだだなと思えてくる。

「社会人」と呼ばれるものに来春から僕はなる。「社会人」になるにあたって僕は胡散臭い倫理的な「べきだ論」を挟みたくはないし、「べきだ論」を挟まれる前にそれをクリアーしていたいくらいの意気はあるつもりだ。「論理的思考」も「社会」でもてはやされているもののひとつである。僕はそれに有利なのかといったら全然そんなことはない。僕の論理力とは「かわいくない論理」であって、世間的に求められているのは、求められるときには論理的に、求められないときは力にフタをできる「かわいい論理」であるからだ。良くも悪くも、世間とは力関係で動いているところがあって、面子をつぶしてしまう論理は煙たがられる。つまり、結果論的には「弱い」ことになってしまう。

中二病のころには、このことには耐え難かったろう。それよりかは耐えがたかったから中二病になったのだけれども。中二病の後遺症が激しい僕は、生き抜いていくために、中二のマインドにフタをしながら前に進む。弱者の手に入れられる武器、それは「正しさ」でも「論理」でもなく、「かわいさ」だ。

※でも中二病マインドは捨てはしませんよ。なぜならば「愛は世界を救うかどうか知らないが、中二病は世界を救う」から。この(暴)論は大親友と話し合ったもので、また書きたいなあ。ちょっとだけ書くと中二病は、拡大解釈ですが、一度悩みに悩みぬくことで人にやさしくなれる青年期のイニシエーションだと思っています。今回は「議論」というものを勝ちか負けかがあるものとして捉えたけれども、平田オリザ氏や中島義道氏のいう「対話(dialogue)」はそういう勝ち負けの話でない本質的なコミュニケーションのことだと思うし、人間にはこれがないと平和でなくなってしまうと思うからです(身近な人の間の「平和」も、もっと大きな「平和」も)。僕にとって中二病マインドは、この本質的コミュニケーションが「可能である」と信じるヒューマニズムの源泉です。

2 comment :

  1. はじめてみてみたー。やってるねー。
    論理的思考は可能なのでしょうかねぇ。そもそも論だけどさ。
    まぁ論理的なことが人を救うわけじゃないよね、確かに。

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  2. コメありがとう。論理とうまくつきあう、みたいな事が必要なんだと思う。論理が万能だと一応建前上なっているユートピア空間は、大学くらいだと思うよ。

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