2008/05/20

硫化水素による自殺事件の多発で、自殺の方法をネット上にアップすることへのバッシングが強まっている。つまり、こういったことをネット上で誰でも見られるようにするから、それをきっかけにして自殺する人が増えているのだ、とする主張である。

さて、誰しもがそれを一度は考えたことがあるだろうし、青春の欠くべからざる一幕と僕は捉えるし、特に僕にとってはそれを通り過ぎることがなければ今の<私>にはなれなかったと思う、という前提に立った上で、かつて「自殺」を真剣に考えていた僕には、冒頭のことは考えさせられることが多い。

さて、まず前提条件だが、僕は「暗い」話をしようとしているのではない。結果として私は今こうして生きて文を書いているわけだ。結論としては、僕にとって、自殺を考えるということは、「死ぬということと一度真剣に向き合うことによって、今生きていることのバカバカしさや、バカバカしさを含めて愛する哲学を作ることができた」ということだ。論を進めるにはこれで事足りよう。

自殺というものを認めてよいかどうか、という議論については、自殺を考えていた中学生の頃から僕のスタンスは「個々人に委ねられる」であった。振り返ってみても、この意見に変わりはない。

というのも、僕には体験から、自分自身が生きるか死ぬかはあの時<私>が「選び取った」という思考の流れがあるからだ。

この議論は<私>の命は誰のものなのかという議論に行き着く。私の立場は一定して<私>の命は<私>のものである、というものである。換言すれば、自分の命を生かすか殺すか、そのコントロール権は<私>が握るべきだ、と考えているし、それが「人権」(*)だと僕は考えている。

(*)僕は法律の勉強を高校卒業以来していない。しかし、僕のような文学部アタマでこれを法律的に言うならば、これは「幸福の追求権」だと思う。

リバタリアニズムの議論の中に、自分の身体への所有権の議論があるが、それに近いし、これに基づくならば僕の意見はリバタリアン的ということになる。

しかし、誤解のないように断っておくとすれば、僕はあくまで「全ての人が」「自殺と言うものを認めるべきだ」と考えているわけではないということだ。「個々人」が生きることや死ぬことを判断すればいいと考えている。ドナーカードに自分の意思を書き込むような発想に近い。

しかし、冒頭のエピソードに戻るが、「社会」は人が自殺することを阻止しようとしている。TVなどマスコミは連日のようにこの「問題」を報じ、日本テレビの報道番組などは硫化水素による自殺のノウハウをインターネット上に公表している男性を「信じがたい」とやや感情的になりながら非難していた。

おそらくこれを見てそうだそうだと手を打っている人にも、僕のように斜に構えながらこの報道の裏を読もうとしている人間にも根底にあるのは「人の命は地球より重い」というかのテーゼである。

僕たちは常にこのように教育されてきた。このテーゼには無条件のもとに納得してきた。このテーゼは使われなくとも、あるいは使われたとしてもかの赤軍の事件からは脱臭されて、僕たちの頭に刷り込まれてきた。げにその通り。自分の命や他人の命を尊重してこそ、愛情や信頼は生れるだろうし(その逆もあるだろう)、そもそも殺しあってばかりでは社会は成り立たない。しかし、こう考えたらどうか。共同体の成員の中から少数を殺すことによって、社会は一体感を保っている、と。

それが、死刑というものだ。死刑は言うまでもなく、「国家にオーソライズされた殺人」であり、その是非についての僕の意見はまたの機会に書こうかと思う。そもそも死刑は「刑」である以上、「死」はここで「イヤなもの」として捉えられている。裏を返すと「生」とか「命」は「イイもの」であるという前提の思想があり、これが「死刑」というシステムの発想を支えているのである、と分かる。

つまり、感情的な自殺事件報道であれ、「人の命は地球より重い」イデオロギーであれ、そういったものは一面で死刑のシステムを思想的に支えていると捉えることが出来る。人の命など「風の前の塵に同じ」では、刑としての抑止力がないし、大きく「国家」としての役割にもかかわってくることだ。

死刑というシステムが最終的に人の命を「国家」という大きなものの手で左右するものである以上、日常の報道だとか、あるいは流行の歌や本や映画やら(特に恋愛と命を絡めたもの…… 名前は挙げずとも)で商業ベースからミニマムに、ミニマムに僕たちは「命は大切だ」を刷り込まれていることには、僕は胡散臭さを感じる。

僕自身はこういう類の「命は大切だ」イデオロギーには斜に構えてしまう。命は大切だと言いながら、報道であれフィクションの中であれ、ここで「命」や「死」は朝食の最中に消費するテレビの向こうの他人事、あるいはお涙頂戴のストーリーに還元されてしまう。消費物としての「死」は、大安売りの状態である。

大安売りの「死」を通してならば、「命の重さ」を感動的に主張することは、実はたやすい。しかし、硫化水素を発生させたり、電車に飛び込むだけであっさりと失われる意外に軽い命を、それでもなお失わずに持っているということを自覚することが、本当の意味での「命の重さ」なのではないか。あくまで自分自身のちっぽけな命に対峙することから「命の重さ」は考え始めるべきだと思う。そのためには、「命の軽さ」に目を向けなければならない。それを通して、死刑や自殺も考えるべきだろう。

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